第五部「交易都市編」第3幕 163 証言の持ち主
語られた言葉は、誰のものなのだろう。
聞いた者の手帳に残った瞬間、持ち主まで変わるのだろうか。
旅舎の小さな食卓に、ジュリアはエリゼーを前に白い紙を一枚置いた。
昼の光が少し傾き、窓の外では荷を運ぶ声が重なっている。
エリゼーは紙の上を見たが、まだ何も書かれていない。
「記録を取るとき、私が誰かの言葉を持ち帰っているのだと思ったことがあります」
「今は違うの?」
「分かりません。持ち帰って、誰かへ渡して、その先に何が起こるかまでは……私が決められない」
ジュリアの手帳には、街で聞いた許可のある話が記されていた。
前の頁には、七秤市場の商人が自分の名で署名したいと話したときの覚えが残っていた。
あの人は自分の言葉に責任を持つことを望んだ。
しかし別の誰かは、言葉を人に渡すこと自体を拒むかもしれない。
その両方を記録係が尊重するには、まったく違う手つきが必要なのだ。
「ここは出してもいい」と許された文章も、時間がたてば本人の心が変わることはあるだろう。
では、一度承諾を得たら永久に守らなくてよいのか。
ジュリアは自分の手帳に答えを探し、見つからなかった。
働く時間や荷の重さ、名乗り方への不満。
そこに書かれた言葉を、すべて同じ扱いで並べてよいのか、急に不安になった。
彼女はアルマ・リスネルの名を思い浮かべた。
以前に非公開で証言した人がいる、と知っている。
けれど、その中身を自分が知っているわけではない。
非公開という事実を聞いただけで、そこに重要な秘密が眠っているかのように胸が騒ぐのは、自分の側の都合だった。
「ある人が過去に話したことを、私は聞いていません」とジュリアは言った。
エリゼーはすぐには答えない。
「それなのに、聞けなかったことを記録したくなります。誰かが話したという事実から、何かを推し量ってしまう」
「記録係の仕事が、あなたをそこへ連れていくのかしら」
「私が勝手に連れていっています」
その言い方は強すぎたかもしれない。
エリゼーは眉を寄せたが、慰めなかった。
「あなたが知っているのは、その証言が一般には公開されていないというところまで?」
「はい。それ以上を尋ねる資格があるかどうかも分かりません」
「なら、まずそこまでしか書けないのでしょう」
ジュリアは苛立った。
分かりきったことを静かに言われると、分かっていなかった自分が見える。
「私が書けないことを、他の人はもう知っているかもしれません」
「そうかもしれない。でも、その人の知っていることを、あなたの手帳へ移してよい理由にはならないわ」
ジュリアは返す言葉を探した。
エリゼーの言い方に反論したかった。
相手の誤りを指摘するためではなく、この人にも分からないものがあると言ってみたかった。
「エリゼー、あなたも、記録を見たいのでしょう」
問いが出たあと、部屋の空気が少し変わった。
「見たいわ」とエリゼーは答えた。
「でも、見たいからこそ、誰がその願いを許せるのか分からなくなる」
ジュリアは、教会でエリゼーと並んで資料を読んだ日々を思い返した。
昔は彼女の指が示した行を追えばよかった。
今は、同じ紙の前で違う行を選ぶ自分を守らなければならない。
「本人が今ここにいて、別のことなら話してもいいと言ったとしたら」
とジュリアが聞いた。
「それは、別のことを話していいという意味でしょう。昔の証言も聞いていいという意味ではない」
「……分かっています」
「分かっていることを、口にして確かめるのは悪いことじゃない」
エリゼーはそう言ったが、ジュリアはその優しさに従いたくなかった。
自分に優しくしてくれる人の判断に、また自分の答えを預けてしまいそうだったからだ。
彼女は白い紙の上に、二つの短い見出しを書いた。
「聞いたこと」と「聞いていないこと」
二つ目の下には何も足さなかった。
空欄を埋めたい気持ちは残ったままだ。
夕方、ジュリアは紙を折って手帳に挟んだ。
そのまま外へ持ち出す気にはなれなかったが、捨てることもできなかった。
誰かが話した言葉は、話し終わった途端に聞き手のものになるのではない。
そう思いながら、彼女はまだ、その人へ直接尋ねる勇気を持たなかった。
アルマの非公開証言の内容には触れません。ジュリアは語り手の所有する選択を考え、証言の存在そのものから内容を推測する危うさに向き合います。




