第五部「交易都市編」第3幕 162 鍵を預からない
手の届く場所に、触れてはならないものがあった。触れないことを選ぶ手にも、ためらいは残る。
ある日の昼を少し過ぎた頃、エリゼーは証言回廊の近くまで歩いた。
待ち合わせの約束があったわけではない。
ジュリアから聞いた話を、自分の目でも確かめたくなったのだ。
その思いが相手の仕事を横取りする理由にならないか、少し気にかかった。
入口の扉が開き、背の低い机を運ぶ二人の職員が出てきた。
机の脚が段差に引っかかり、エリゼーは思わず手を伸ばした。
端を持つだけのつもりだったが、一人が礼を言い、もう一人が腰に下げていた鍵束を外した。
「ちょっと預かってもらえますか。両手がふさがっていて」
差し出された鍵束には、異なる形の金具がいくつも付いている。
エリゼーは反射的に手を出しかけた。
重い机はもう運び始められており、ここで断れば面倒を増やす。
けれど、金具が指先に触れる寸前、彼女は手を止めた。
「すみません。鍵は、ここで働く方に預けてください」
若い職員は驚いたように目を上げた。
「使ってもらうわけじゃないですよ」
「分かっています。でも、私にはどれがどこの鍵なのか分かりません」
声を荒げたつもりはなかった。
それでも自分の返事が、誰かを疑う言葉のように聞こえた気がして、エリゼーは頬が熱くなった。
奥から別の職員が現れ、鍵を受け取った。
机は無事に運ばれた。何か重大な出来事が起きたわけではない。
むしろエリゼーを落ち着かなくさせたのは、断った自分を少しだけ誇らしく感じたことだった。
正しい選択をしたという気持ちは、他人の未熟さを数える気持ちに容易に変わってしまう。
「助けてくださったのに、気を遣わせましたね」
背後から声がして振り返ると、受付から出てきたソフィアが立っていた。
「そんなつもりでは」
「あなたを責めているのではありません。頼んだ人も、あなたも、途中で何かを思い出したのでしょう」
エリゼーは、先ほどの若者が叱られるのではないかと気になった。
自分が鍵を断ったことで、あの人の不注意を表に出したのだとしたら。
「私は、その方の仕事に口を出す立場ではありません」
エリゼーの頭には、何度も見てきた古い書庫の扉が浮かんだ。
権限を持つ者が当然のように紙を取り出し、権限のない者が廊下で待つ。
それを不公平だと感じたことはある。
けれど、自分が鍵を手にしたとたん、公平になるわけではない。
もし今、頼まれたとおりに鍵を受け取っていたら。
彼女はそれを不正に使わなかっただろうか。
たぶん使わない。
それでも「使わなかったから問題はなかった」とだけ言うことは、自分の側の都合に思えた。
入口の一歩を出し入れするだけで、知らない人の仕事がいくつも重なっている。
彼女はそう考えて、助けたつもりだった机の脚をもう一度見た。
「私もあなたの胸の内を決める立場ではありません」
ソフィアの声には、慰めの響きがなかった。
それがかえって、エリゼーを助けた。
扉の向こうの文書について聞けば、ジュリアの知りたかったものに近づけるかもしれない、と一瞬考えた。
かつて教会で見た記録の不一致、時刻だけが整えられていた頁、確かめた人の名前のない写し。
聞けば誰かが答えてくれると信じたい気持ちは、真相を望む気持ちと分けられないほど長く自分の中にあった。
「もし、閲覧できない資料の存在だけを知りたいと言ったら」と、口にしかけた。
ソフィアは急かさずに待っている。エリゼーは続きを飲み込んだ。
「いえ。今日は聞きません。まず、何を知りたいかを自分で確かめます」
「その方がよろしい時もありますわ」
いつでもそうだとは言わなかったところに、仕事の難しさが滲んでいた。
通りに戻ると、ジュリアが向こうから歩いてきた。
抱えているのは薄い案内の紙だけだった。
「来ていたんですね」とジュリアは言う。
「偶然通りかかった、とは言えないわね」
ジュリアは少し笑ったが、その笑みが何を許したのかエリゼーには分からなかった。
「私の代わりに、何か聞きました?」
「何も。聞こうとして、やめたことはある」
「よかった」
その返答にエリゼーは、わずかに傷ついた。
自分が勝手に進まなかったことを喜ばれたのが悔しいのか、喜んでほしかったのか分からない。
二人は並んで歩いた。エリゼーの手には何も残っていない。
それなのに、預からなかった鍵の重みだけが、指の腹にいつまでも残っていた。
鍵を断る行為は事件の解決でも、他者を断罪することでもありません。
エリゼーが自分の知りたい気持ちと、触れてよい範囲を分ける最初の実践として描きました。




