第五部「交易都市編」 第二幕 働く人々と責任の行方 159 商人の署名
複数の名前が並ぶ書面は、皆が同じ責任を負ったことを意味するのだろうか。
ジュリアは、署名の位置に込められた違いを確かめる。
七秤市場で交わされた合意書には、いくつもの署名が並んでいた。
取引の内容に同意する人、品物の状態を確認する人、受渡しを担当する人。
それぞれが同じ紙に名を記しているが、書いた理由は同じではなかった。
ジュリアは、アデル・リュネが紙を畳む手を見ていた。
若い独立商人は、自分の署名だけがほかの者の小さな印に挟まれているのを見て、少し表情を硬くした。
「不満ですか」とジュリアが尋ねた。
「いえ。気になっただけです。名前が並ぶと、私が誰かの保証を受けて仕事をしているように見える人がいるので」
アデルは自分の名前を指した。
「これは私が引き受けた仕事です。ほかの人の名は、それぞれ別の理由である」
「同じ紙にあるから、同じ責任とは限らない」
「そう。私の父の商いだと思われることもありますが、私は自分の名で頼み、失敗したら自分の名で説明したい」
ジュリアは、アデルが商人家の娘と呼ばれることを嫌っていたのを思い出した。
名乗ることは簡単なようでいて、他人の期待を引き受けることでもある。
「ひとりで責任を取りたいんですか」
「ひとりで、という言い方は違うかもしれません。手伝う人はいる。でも、その人がしたことまで私の手柄にはしたくないし、私が決めたことを誰かのせいにしたくもない」
合意書は、複数の商人が一緒に仕事を進めるためのものだった。
ジュリアは、大型の商船が複数の商人によって共同運営されることもあるという話を思い出す。
そこにもいくつもの署名があるのだろう。
しかし今見ている紙から、まだ知らない船の制度を推定することはしなかった。
アデルはジュリアの手帳へ目を向けた。
「あなたは、誰かの名前を書くとき、どうしていますか」
「本人がそう名乗ったかどうかを確かめます」
「それだけ?」
問いの鋭さにジュリアは身構えた。
「どういう意味ですか」
「私の名を書いても、読む人が『誰々の娘』と受け取ることがあります。
書いた人は間違っていない。でも、私が渡したかったものが届かない」
ジュリアは答えられなかった。
正しい名前を書き、誤った関係を加えなければ、それで十分だと思っていた。
「なら、どう書けばいいのでしょう」
「分かりません。分からないから、あなたに聞きました」
アデルは少し笑った。
ジュリアは、その言い方に好意を覚えた。
答えを持つ者として見られるより、一緒に考える相手として見られることが嬉しかった。
アデルは署名のあと、少しだけ古い商いの話をした。
父の家では、一つの名前で何人もの人が呼ばれた。
父の娘、商家の者、手伝いの者。
自分の名を告げても、その前に別の名前を付け足されることがあった。
「悪気のない呼び方だと、断りにくいんです」と彼女は言う。
「私は、正確に書いているつもりで、そういう呼び方を使ったことがあるかもしれません」とジュリアが答えた。
「使っていたとしても、あなたを責めに来たわけじゃありません。私も、自分で望む呼ばれ方を毎日同じように言えるわけではない」
アデルは署名の上へ手をかざした。
「この紙に名があると、怖くなります。何かを約束した証拠だから。でも、書かないほうが怖い。誰かの名前の陰へ戻ってしまう気がするんです」
その言葉にジュリアは、自分も似た気持ちで記録係を名乗るのだと思った。
教会という大きな名の中で働きながら、自分の判断として言葉を書く。
書けば誤りの責任も生まれる。
しかし書かないまま誰かの判断へ預けることも、彼女にはもうできなかった。
「この署名は、あなたにとって何ですか」とジュリアは聞いた。
アデルは少し考えて、「明日も自分の名で返事をするための約束です」と言った。
ジュリアはその答えを、本人が許す前に手帳へ書かないでおいた。
アデルの背後を、別の商人が通り過ぎた。
彼女を昔から知るらしく、家の名で呼びかけようとして途中で言い直した。
アデルは一瞬だけ肩を強張らせ、それから平らな声で返事をした。
ジュリアは、言い直した人を非難しなかったが、その言い直しに必要だった一瞬を覚えておきたかった。呼び名を変えることは、相手の歴史を消すことではない。
今日の相手の望みを聞き直すことだ。
夕方、エリゼーにその話をすると
彼女は「名前は、その人のものね」と言った。
「でも記録に書くのは私たちです」
「だから難しいのかもしれない」
二人は紙を眺めた。
署名の横には、それぞれ短い役割が記されている。
名前が並ぶことは、責任が溶け合うことではない。
境目を認めたうえで、同じ取引に関わっている印なのだろう。
ジュリアは、書類を一枚だけ見て人の関係を決めつけないと自分に言い聞かせた。
だが、その決意をいつでも守れるかは分からない。
記録に書かれた一行が、その人の生きた姿より長く残ることもある。彼女はそこに畏れを感じた。
アデルの署名の線は細く、途中で一度だけ筆が止まっていた。
ジュリアはそのためらいが何だったのか想像しかけ、すぐにやめた。
名前が明確であることと、心の動きまで読めることは違う。
共同の署名は責任を消し合いません。
ジュリアは、正しい固有名を書くだけでは届かない本人の望みがあると知ります。
商船の具体的な共同運営権限はまだ明らかにしません。




