第五部「交易都市編」 第二幕 働く人々と責任の行方 158 返す言葉
心配を伝えるとき、それが相手への命令になってしまうことがある。
エリゼーは、傷つけたくないという願いにも別の刃があると気づく。
ハインツに「休んで」と言いかけたことを、エリゼーは覚えていた。
言わずに済んだ言葉なのに、今では口にしてしまったように胸の奥に残っている。
彼を心配するのは当然だ。
右腕の傷は見えていたし、歩く速さが変わった日もある。
しかし、何をしてはいけないかを先に決めるのが愛情だろうか。
夕方の石楔旅舎で、彼女はその話を始めた。
ハインツは卓の向こうで、使わなかった紙を一枚折りたたんでいた。
「私、あなたのために決めたくなるの」
彼は目を上げた。
「知っているよ」
「嫌だった?」
「嫌なときもあった。でも、嬉しかったときもある」
エリゼーは少し苛立った。
簡単に謝り、簡単に許される形にしたかったのかもしれない。
嬉しかったときもあると言われると、何を直せばいいのか分からなくなる。
「私は自分の気持ちを正しいことにしてしまう」
「僕だって、心配されないと寂しいと思うくせに、心配されると腹を立てる」
彼の口元が緩んだ。
その笑いは、問題が解けた証拠ではなかった。
ただ二人が同じ不器用さの外側に立てたような気がした。
「あなたの腕について、どこまで聞いていいか教えて」
「その日によると思う」
「そんな答えだと、また間違えるわ」
「間違えたら、言えばいい」
その言葉が、エリゼーには怖かった。
間違えたとき、相手が離れてしまうかもしれない。
何かを言い損ねるより先に、正しい方法を見つけたかった。
これまで、自分の記録も、人のためだと思う判断も、確かめる前に完成させたがる癖があった。
「あなたが嫌な顔をしたら、私は自分が悪い人になったみたいに感じる」
「僕が嫌な顔をすることと、君が悪いことをしたかどうかは別だよ」
彼は少し考えた。
「でも、傷つくことはある。そこは別じゃない」
エリゼーは頷いた。
謝れば相手の痛みが消えるわけではない。
正しい意図だったと説明すれば、自分の言葉がなかったことになるわけでもない。
「次に私が勝手に決めたら、止めてほしい」
「それは……そう頼まれると難しい」
「どうして」
「君がしてほしい形で止めようとしてしまうから」
二人は笑った。
けれど笑いが静まると、会話はまた少し難しくなった。
「僕が何も言わない日もあると思う」とハインツは言った。
「それを、平気だという意味にはしないでほしい」
エリゼーは顔を上げた。
彼が黙ると、自分が無理に聞き出したくなることもある。
黙っていることを尊重するために、何をしてほしいか尋ねる。
その順番を覚えなければならない。
「分かった、と言いたいわ。でもまだ、分かっていない部分があるし」
「僕も」
エリゼーは以前、誰かのために正しい言葉を選ぼうとして、相手の返事を聞かずに話を終えたことがある。
その記憶が、ハインツの前に座ると突然戻ってきた。
元夫エランとのことを、今ここで詳しく語るつもりはなかった。
過去を持ち出せば自分の言い分が重くなる。
その重さを、彼に引き受けさせたくなかった。
「私が怖いのは、あなたが嫌な思いをすることだけじゃない」と言った。
「ほかに?」
「私がまた、相手を自分の思う正しい方向へ動かそうとしてしまうこと」
ハインツは何か言いかけ、やめた。
慰めを差し出すのは簡単だ。
しかし彼女の怖さを「今は違うよ」と言って消してしまえば、彼女の言葉を聞いたことにならない。
「僕も、自分の苛立ちを君のせいにしたくなる日がある」と答えた。
「そういうときは?」
「うまく言えるか分からない。でも、言えなかったら、あとから話そう」
エリゼーは胸が温かくなるのを感じた。
約束が完全だからではない。
不完全な約束を、二人で何度でも確かめ直せると思えたからだ。
彼女は右手を卓の上に置いた。
ハインツも手を動かしたが、触れ合わなかった。
今はそれでよかった。
届く距離にいながら、相手の手を自分のものとして扱わない。
その距離を二人は覚えようとしていた。
エリゼーは、ハインツの話を聞きながら、自分の言葉がかすかに硬くなるのを感じた。
自分にも正しいと認めてほしい部分がある。
彼だけに譲り続ければ、いつか黙ったことを恨むだろう。
対等でいるとは、相手に任せることばかりではない。
自分が不安だと伝え、それでも相手の決定を奪わないことなのだろう。
「私も、心配していることは言うわね」と付け加えた。
ハインツは頷いた。
「それは、言ってほしい」。二人はその返事を、ようやく同じ意味で聞けた気がした。
夜、二人は廊下へ出た。
遠くで別の鐘が鳴っている。
祈りのために鳴らす鐘と、仕事の始まりを告げる鐘は、同じ響きを持つことがある。
エリゼーは、どちらか決めようとしなかった。
「腕はどう?」と尋ねる。
ハインツは少し考え、「今日は、休んでよかったと思う」と言った。
エリゼーは、休んでよかったねと言いかけ、やめた。
「そう思えたのね」と答えた。
ハインツが頷いた。
聞き直すことも、言い直すことも、まだ二人にはぎこちない。
けれど、ぎこちなさをなくすことだけを目指さなくてもいいのかもしれなかった。
二人の会話は解決を宣言しません。
愛情が相手の選択に入り込む危うさと、心配されたい気持ちの矛盾を、ともに残します。




