第五部「交易都市編」 第二幕 働く人々と責任の行方 156 約束の境目
親切だったから引き受けた仕事に、誰がどこまで責任を持つのだろう。
ベアトリスは、決着のつかない相談を前に椅子へ座る。
親切だったから引き受けた仕事に、誰がどこまで責任を持つのだろう。ベアトリスは、決着のつかない相談を前に椅子へ座る。
【本文】
相談房の窓を開けると、朝の風が紙の端をめくった。
ベアトリス・オルネは、最初に飛び上がった紙を押さえ、そのあとで窓を少し閉めた。
職場にいる時間の半分は、こうした小さなことを調整している気がする。
相談相手の気分、紙の置き方、話を始める順番。
合意に至るまでに動かせるものは、多くない。
今日来た二人も、最初は親しい取引相手だった。
ひとりが荷の保管を好意で引き受け、もうひとりがその好意を当てにして次の手配を進めた。
ところが、保管していた期間も、受け渡すべき時点も、互いの話が違っていた。
「助けようと思っただけなのに」と片方が言った。
「助けてもらえると信じたんです」ともう片方が答えた。
二人とも、自分の言い分を嘘だとは思っていない。
ベアトリスはそれがいちばん難しいと感じた。
片方だけを悪いと決めれば、話は早いのだろう。
だが、自分の役目は、早く誰かを悪い者にすることではない。
「最初に決めたことから、聞かせてください」
彼女は二人の間へ紙を置いた。
「後で考えたこととは、分けて」
その区別をすると、二人はどちらも言葉を探すことになった。
初めに頼んだとき、互いを信頼していた。
だからこそ、言わずに済ませたことがある。
「信じていた相手と、こんなところへ来るなんて」と一人が呟いた。
ベアトリスは顔を上げなかった。
ここへ来たことを、関係が壊れた証拠にしてほしくなかった。
相談を求めることは、相手を疑うことと同じではない。
しかし彼女がそう説明すればするほど、二人の失望を軽く扱う気がして、口を閉じた。
昼になっても結論は出なかった。
次に確かめる事項を二つ残し、二人は帰った。
椅子に空白が生まれると、ベアトリスの肩へ疲れが落ちてきた。
「お役に立てませんでしたか」
エリゼーが部屋の端から声を掛けた。
以前、記録について相談した旅人だ。
今日も立会いの許可された範囲で、話を聞いていた。
「まだ役に立ったとは言えません。邪魔もしなかったと思いたいですが」
「仲直りさせることが仕事ではないんですね」
「仲直りしてくれたらうれしい。でも、私が代わりに仲直りすることはできません」
ベアトリスは目を閉じた。
「たまに、自分が椅子から動かなければ全部収まると思ってしまうんです。座っているだけで判断が重く見えることがあるから」
「私も、書いているだけで確かな人だと思われることがあります」
その言い方に、ベアトリスは笑いそうになった。
二人の仕事は違う。
それなのに、紙が人の代わりに権威を持ってしまう怖さは似ている。
ベアトリスは昔、親切で引き受けた仕事のことで、夜遅くまで誰かの苦情を聞いたことがあった。
どちらにも言い分があり、どちらにも悪意がなかった。
以来、善意という言葉を聞くと、少し怖くなる。
もちろん善意をやめてほしいわけではない。
それを契約の代わりに置いたとき、互いの期待がどれほど増えるかを知っているからだ。
今日の二人を見送ったあと、彼女は相談の記録をもう一度開いた。
途中まで書いた「当事者の同意」という言葉に線を引き、その前へ「どの範囲の」と書き足す。
同意したことと、相手が望んでいると思ったことを分けなければならない。
細い線が増えるだけで、紙は随分読みにくくなる。
「もっと簡単にまとめたらどうです」
と若い事務係が言った。
「私もそうしたい。でも、簡単にしてなくなるのが、誰かの約束だったら困る」
若い者は頷いたが、納得したかどうかは分からなかった。
ベアトリスはそれでよかった。
自分だって、以前の自分に同じ言葉を言われたら面倒だと思っただろう。
窓の外で二人の子どもが石畳に線を引いて遊んでいる。
線の内側と外側を決め、すぐまた書き直す。
その自由が少し眩しかった。
大人の約束には、簡単に引き直せない境界がある。
扉を閉めるとき、ベアトリスは今日の二人が最初に笑っていた場面を思い出した。
何かの挨拶に、二人とも同じ声で返事をした。
あの一瞬の親しさを、彼らが取り戻すかどうかは分からない。
相談をする前から失われたのか、相談のあとにも残っているのか、彼女には決められなかった。
記録に残せない親しさのためにも、人がまた顔を合わせる場所を用意しておきたいと思った。
夕方、彼女は今日の相談に付ける記録を整理した。
確認できたこと、双方が異なる理解をしていること、次に確かめること。
どうすべきかという自分の感想は書かなかった。
紙を畳んだとき、ふと一つ心配が浮かんだ。
今日来た二人は明日もお互いの顔を見るだろうか。
自分の前で言わなかった言葉を、次にはどんな声で言うのだろう。
知る術はない。知ったとしても、それを記録してよいとは限らない。
ベアトリスは椅子を窓から少し引いた。
外の広場では、人々が何かを取り引きしている。
自分のところへ来ない約束のほうが、世界にはずっと多い。
そのすべてに口を出さずに暮らしている人がいるから、この町は今日も動くのだろう。
善意にも責任が生じることがあります。
しかし善意そのものを罪として扱うと、人の関係は痩せてしまいます。ベアトリスは結論を急がない重さを引き受けます。




