第五部「交易都市編」 第二幕 働く人々と責任の行方 153 閉鎖の札
扉を開ければ喜ぶ人がいる。それを知りながら札を外さない職人の胸に、何が残るのだろう。
札を掛け直した日の夕方、エルンストはその下に座り込んだ。
疲れていたのではない。
膝を折れば、閉じた扉の蝶番のあたりがよく見えた。
長年見慣れた木の節がそこにあり、手を伸ばせば板の表面を指でたどれる。
扉の向こうを知らない人が見たら、古い仕事場が休んでいるだけに見えるだろう。
「今日も聞かれました」とフィンが言った。
「何を」
「いつ開くのか」
「何と答えた」
「まだ決められないと」
エルンストはうなずいた。
同じ答えを重ねるたび、自分の仕事は狭くなる。
開けてくれと言う人には、断る理由を理解してもらう義務があるのかもしれない。
しかし全部を説明すれば、機械の状態について確かめ切っていないことまで、断定した形で伝えてしまう危険もある。
そこへ依頼人が来た。
前に何度か注文を受けた商人で、声には親しさが残っている。
「忙しいのは分かる。でも、札だけでも外してくれないか。
客に見せるとき、仕事を断られたように思われる」
「閉じている区域は、実際に使えません」
「使うかどうかと、札があるかどうかは別だろう」
「俺には、別ではないんです」
男は眉をひそめた。
「信用しているから頼んでいるのに」
エルンストは胸が詰まった。
信用という言葉を使われると、応じない自分が相手の善意を踏みにじるように感じる。
以前の彼なら、応じたい気持ちを仕事の腕で裏づけようとしただろう。
今は、腕があるからといって安全を約束できない。
「信用してくれるなら、なおさら札を外せません」と彼は言った。
相手はしばらく立っていたが、結局、別の仕事についてだけ相談して帰った。
礼は控えめだった。
エルンストは、説得に成功したとは思わなかった。
相手の失望を受け取っただけだ。
フィンが向かいに座った。
「どうして、あんなに苦しそうに断るんですか」
「断られた人が困ると分かっているからさ」
「それでも正しいんでしょう」
「正しいことをしたつもりで、相手が困っているのを見ないようにしたら、何かを間違える気がする」
「じゃあ、どうすれば」
「分からない。分からないから、そのまま残す」
午後には、別の客から言葉を掛けられた。
以前、長く付き合った商人で、今日も仕事が滞っていると言う。
その顔には怒りだけでなく、何かを頼れる最後の場所へ来た人の疲れがあった。
「市へ相談したほうがいいんだろうか」と商人が言う。
「困っていることを相談するなら、止める理由はありません。
ただ、この扉を安全だと認める判断を、代わりにしてもらえるとは限らない」
相手はため息をついた。
「あんた自身が困っているのは、誰が聞く」
エルンストは意表を突かれた。
閉めた責任は自分にある。
その責任を人に訴えるのは卑怯な気がしていた。
しかし、仕事を断るたびに心が擦り減ることと、閉め続けることの必要性は別だ。
「若い者に、よく愚痴を言っています」
と答えると、商人は初めて笑った。
「それなら少し安心した。職人が機械より先に壊れるのは困るからな」
言葉は粗かったが、長い付き合いの親しさがあった。
エルンストは礼を言わず、代わりに小さく頭を下げた。
商人が帰るとフィンが来た。「何を話していたんですか」
「俺が働けるかどうかの話だよ」
「働いているじゃありませんか」
「そうだな。でも、働いているように見えない日もある」
フィンはしばらく考え、「明日の注文なら、俺が聞きに行けます」と言った。
助けようとする気持ちに、エルンストはうれしさと警戒を同時に感じた。
若い者に責任を渡すとは、自分が弱くなることと同じではないのだと、まだうまく言葉にできなかった。
夕方が近づいても、エルンストのもとへ別の人が来た。
小さな修理を頼み、閉鎖については一度も口にしない。
その何気ない注文が、年長の職人には救いになった。
自分は今も働いてよいのだと、誰かに認めてもらう必要があったのかもしれない。
そう考えて、少し恥ずかしくなる
。職人としての誇りも、人に必要とされたいという願いと分けられない。
夕暮れの明かりが扉にかかる。
エルンストは、あの日見た不確かな状態を思い返した。
はっきり分かった危険もあるし、まだ確かめる必要のある部分もあった。
その区別を、頭の中だけで持つには疲れすぎている。
「明日、紙に整理するよ」と言った。
フィンは待っていたように頷いたが、すぐに「俺も書けます」と言わなかった。
最近、師の仕事を代わりに引き受けようとする前に、その理由を考えるようになっている。
「閉じている間の仕事も、残しておきたいです」
「そうだな。扉の外の仕事も、ここで続いているからな」
話しながら、エルンストはふと、札を外したい気持ちが自分の中にもあると気づいた。
仕事場の主人が、閉め続けることだけを望むはずはない。
今日来た商人と同じくらい、開けたい。
ただ、その願いを判断の理由にしてしまうのが怖かった。
扉の向こうは静かだった。
夜になっても、誰も入らない。
エルンストは札の紐を確かめ、締め直した。
罪悪感が消えないことを、決断が間違っている証拠にはしなかった
期待を裏切ることへの痛みと、安全のために閉じ続ける判断は同時に成立します。エルンストの迷いを描きながら、閉鎖区域は再開しません。




