第五部「交易都市編」 第二幕 働く人々と責任の行方 150 渡された責任
記録する者がいるからといって、記録される者の意思が消えるわけではない。エリゼーは、閉じた扉の理由を書いてよいのか考える。
旧市の作業場に、閉鎖の理由を書いた紙があった。
入口に掛けられた札とは別に、エルンストが作業中の確認を重ねている文書だ。
エリゼーは机の上に伏せて置かれたそれを見たが、手を出さなかった。
見せられていないものは、そこにあると分かっていても、自分の読むものではない。
「記録係の人でしたね」
エルンストが言った。
先日の来訪を覚えていたらしい。
「はい。ただ、あなたの記録を見るために来たのではありません」
「見せるつもりがないわけでもない。でも、これはまだ途中なんです」
エリゼーは頷いた。
途中の文書を見ることが、書き手にどれほどの重荷になるか、彼女自身よく知っている。
書き終えた時には変わるかもしれない考えを、その日の途中で誰かに渡してしまう怖さがある。
「どうして記録に残すんですか」と彼女は尋ねた。
「誰が閉めたのか、あとで尋ねられるからです。
それから、どうして開けなかったのかも」
「自分を守るため?」
「そういう面もあるでしょう」
彼はためらわずに認めた。
「ただ、もし俺がいなくなっても、次に判断する人が同じところから始めなくていいようにしたい」
エリゼーはその言葉に、懐かしさを覚えた。
教会で記録を残す理由を問われると、自分も似た答えをした。
ここにいない人がいつか読むため。
今はまだ見えない誤りを、後の誰かが確かめられるようにするため。
しかし、それだけなら良い記録になるとは限らない。
「途中の推測も書くんですか」
「書くことはある。ただ、確かめたことと分けようとは思っています」
「誰かが、早く開けろと求めたら?」
「その人が困っていることも書くかもしれない。困っていると言った人の名まで書く必要があるかは、考えます」
エリゼーは驚いた。
安全を守る文書だからといって、そこに現れた誰かの事情を無条件に集めてよいわけではない。それを職人のほうが先に考えていた。
フィンが小さな箱を持って戻ってきた。
修理を終えた品物らしい。
師の前で確認の紙を読み、まだ尋ねることがあると報告した。
エルンストは「それも残しておけ」と言い、エリゼーに向き直った。
「若い者へ渡すことが増えました。でも、俺が決めたことまで、あいつに背負わせるつもりはない」
「それを、言葉にできるのですね」
「言葉にしないと、いつか間違えそうですから」
エリゼーは、自分がもう記録を書く側だと思っていないことに気づいた。
ここでは誰も自分に文書の作成を頼んでいない。
自分はただ、他人が書こうとしている理由を聞いている。
その位置にいるのは、思ったより落ち着かなかった。
「私なら、整理のお手伝いができるかもしれません」
と口にしてしまった。
エルンストは少し考えた。
「ありがたいですが、今は自分たちで進めます」
断られると思っていなかった。
彼女の胸に、小さな恥が生まれる。
手助けを申し出たつもりで、相手の考える時間に入り込もうとしていたのかもしれない。
「そうですね。私が要るなら、そのとき教えてください」
「ええ」
返事は短かった。しかし冷たくもなかった。
話の途中、エルンストは閉鎖の札について一度だけ書きかけた言葉を消した。
消した言葉は「危険な状態が続く」という書き方だった。
「続く、と言い切れないんですか」とエリゼーが尋ねる。
「今のままでは確認できていない。
危険がなくなったといえるわけでもない。
だから、続くと書くのと、確認が済まないと書くのは違うでしょう」
エリゼーは頷いた。
文字を少し替えるだけのことだが、そこには見たことと推定したことを区別する意思がある。
「あなたは、人の言葉をよく直す方だと思っていました」
とエルンストが言った。
「仕事でそうしてきました。だから、直したくなるのが怖いんです」
「俺も、動くところを見ると直したくなる。似ていますね」
二人は笑った。
まったく違う仕事のはずなのに、直せる手があるからこそ、触れずに待つ判断が難しい。
その共通点は、相手の文書を借りて証明する必要がなかった。
作業場を出ると、ジュリアが道の向こうで待っていた。
「見せてもらえましたか」
「いいえ。見せてもらう話にはならなかったわ」
「残念でした?」
「少し。自分の仕事が役に立つと思っていたから」
ジュリアは笑わなかった。
「役に立つことと、頼まれることは違いますね」
エリゼーはその言葉を胸の中で繰り返した。
正確な記録を残したいと思うのは良い。
しかし、誰かが自分で言葉を選ぶ権利を、技術があるという理由だけで引き受けてしまってはならない。
夕方、旧市街の空に細い煙が昇った。
別の仕事場の灯を整えるためのものだろう。
閉じた区域はまだ閉じていて、その外で生活は続く。
エリゼーはそれを、整わないままの景色として覚えておこうとした。
フィンが戸口から手を振った。
エリゼーは同じように返した。
何も頼まれず、何も書かず、相手に仕事があることだけを知って帰る。
記録係として何かを成し遂げた日ではない。
それでも、自分の手を不用意に差し出さずに済んだ日だった。
記録に残すことは有用であり、それゆえに相手の選択を侵しやすい行為でもあります。エリゼーは、職人が自分の言葉で書き終える権利を尊重します。




