第五部「交易都市編」 第二幕 働く人々と責任の行方 149 謝らない職人
謝るだけなら、早く終わることがある。
フィンは、師に従うことと、自分の判断を言葉にすることの違いを覚えようとする。
フィンが書いた確認の紙を、エルンストは黙って読んでいた。
曲がった留め具をどこまで直したか。
どんな力を掛けて確かめたか。
まだ分からない使い方は何か。紙の端には、客へ尋ねる項目が並んでいる。
「悪くない」と師は言った。
フィンはほっとした。
だが続いた言葉で、その気持ちはすぐ消えた。
「どうしてここを空けた」
ひとつの欄が空白だった。
客の品物を使う場所について、まだ確かめていない。
「聞かなかったんです」
「なぜ」
「急いでいたので」
「誰が」
フィンは口を閉じた。
自分だった。客も急いでいたかもしれないが、自分が早く仕事を終えて、師へ見せたかった。
「すみません」
言葉はすぐ出た。謝れば次の指示が来ると思った。ところがエルンストは紙を返し、「謝った理由は分かった。では、どうする」と尋ねた。
「客へ聞き直します」
「それで分からないときは」
「分からないまま、使えるとは言わない」
「そういうことだ」
フィンは胸の中で師に文句を言った。
最初からそう言ってくれれば、どれほど楽か。
けれど自分で言い終えると、不思議に腹が立たなくなった。
指示の通りに答えただけなら、その言葉は師の持ち物だったはずだ。
昼すぎ、以前の旅人たちが通りかかった。
ジュリアが紙を覗かずに「書き直すのですか」と聞いた。
「直すっていうより、尋ねることが増えました」
「私もよくあります」
「記録係なんでしょう。なら、初めから漏れなく書けそうなのに」
ジュリアは首を振った。
「書いてから分かることもあります。書く前には、見えていなかったから」
その言葉を聞いて、フィンは少し安心した。
どんな仕事の人も、最初から全部を知っているわけではない。
ただ、知らなかったと言ったあとに何をするかが違うのだ。
エルンストが外へ出てくると、ジュリアは礼を言って離れた。
フィンは師へ声を掛けた。
「さっき、俺は謝りました」
「聞いた」
「でも、聞き直すのは俺が決めました」
「そうだな」
「それなら、謝らなくてもいいんでしょうか」
「相手に困ったことをしたなら、謝るんだろう。だが、謝っただけでは仕事は終わらない」
フィンは口を尖らせた。
結局、簡単な答えはくれない。
フィンは客から品物を引き取るとき、相手の手を見た。
傷も汚れもない指が、何度も箱の端を叩いている。
急ぐ理由は分からない。
だからといって、急いでいないと決めつけることもできなかった。
「今日のうちに直してほしいのは、どんなときに使うからですか」と尋ねる。
「明日、これを持って町の外へ出るんです」
答えを聞いて、フィンは仕事が一段重くなった気がした。
客の明日の予定までは背負えない。
しかし、こちらの約束がその人の予定に入り込むことは確かだ。
「では、いつまでに何を確認できるか、先にお話しします」
客は面倒そうに眉を上げたが、耳を傾けた。
フィンは、自分の声が師と違うことを初めてはっきり聞いた。
若く、少し早口で、言葉の間に不安が滲む。
それでも、自分の声だった。
客が去った後、彼はエルンストへその話をしなかった。
隠すためではない。
自分がした確認を、自分の記録として先に残してから伝えたかったのである。
一人になったフィンは、昨日の失敗を書いた紙を読んだ。
そこには「急いだ」としか書いていない。
何を急いだのか。
客のためか、師に認められるためか。
彼は少し迷ってから、「早く終えたと見せたかった」と書き足した。
誰にも見せないなら書かなくてよいはずだったが
自分だけは知っておきたかった。
あとで紙を読み返したとき、失敗の理由が客のせいに変わっていないように。
向こうの作業台でエルンストが咳をした。
フィンは紙を隠しかけた。
叱られるのが怖いのではなく、こう書いたことを褒められるのが怖かった。
まだ、褒められるために誠実になろうとする自分がいる。
夕方、客が戻ってきた。品物は湿った場所で使うのだと知り、フィンは朝の判断をそのまま通せないことに気づいた。
師の言葉を待ちたかった。
しかし客は彼に話している。
今ここで答えるのは自分だ。
「もう一度、使い方に合うか確かめさせてください。今日中に大丈夫だとは言い切れません」
客は驚き、少し不機嫌な顔をした。
それでも「分かった」と返し、品物を置いて帰った。
フィンは大きな仕事を失ったように感じたが、同時に、何も失っていないようにも思えた。
夜、エルンストは確認の紙をもう一度見た。
「お前の言葉が増えたな」
その言い方が妙にうれしかった。
仕事の数が増えたわけではない。
自分の考えたことを、相手が確かめられる形で残せるようになった。
それが師から渡されるものではなく、自分で作るものなのだと、少しずつ分かってきた。
閉じた扉の前を通るとき、フィンはやはり立ち止まった。
あの中の仕事をしたい気持ちは消えない。
だからこそ、急いで開けるために簡単な謝罪を並べたくはなかった。
いつか問いが必要なら、自分で持っていくつもりだった。
フィンは反抗することで独立するのではありません。
師に任せきりにしていた判断を、自分の言葉で引き受け始めます。閉鎖区域への立入りや再開はありません。




