第五部「交易都市編」 第二幕 働く人々と責任の行方 148 傷んだ腕の朝
痛みを隠したい日がある。
心配されたくないという気持ちの奥に、ハインツ自身にもまだ名前を付けられないものがその奥に残っている。
朝、ハインツは袖を通す順番を間違えた。
痛みがひどかったわけではない。
ただ、右腕を先に入れれば楽だと頭で知っているのに、何も考えず左から通してしまった。
途中で布が引っかかり、彼は小さく息を吐いた。
その音が聞こえたのか、エリゼーが扉の向こうから「大丈夫?」と声を掛けた。
「大丈夫」と答えてから、何が大丈夫なのか分からなくなった。
服は着られる。
歩ける。
市場を見て回るくらいなら問題はない。
なのに、言葉を返した瞬間、自分の身体について誰かに判を押された気がする。
彼はその奇妙な苛立ちをエリゼーへ向けたくなかった。
石楔旅舎の朝食で、ヘルマンは旧市への道を確かめた。
昨日会った職人に、小仕事の相談をしてみたいと言う。
ジュリアは帳面を広げたまま、町の作業者の話をもう少し聞きたいと話した。
ハインツは頷いた。
しかし宿を出ると、石畳のわずかな段差が気になった。
足の運びが悪いのではなく、右腕を揺らさないよう無意識に姿勢を変えているのだ。
「荷を替えようか」とエリゼーが言った。
「いいよ」
声が強くなった。
彼女が立ち止まったのを感じ、すぐに後悔した。
「今は、自分で持ちたい」
「分かったわ」
答えが短すぎた。
怒っているのだろうか。
もっと心配してほしかったのかもしれない、と気づいたとき、ハインツは自分がひどく面倒な人間に思えた。
通りの向こうでは、男が木箱を二つ抱えて歩いている。
ひとつを運ぶことすらつらかった日が、まだ身体に残っている。
誰かが代わりに運んでくれたとき、感謝と同じ強さで、自分が取り残された気持ちがあった。
仕事を手放したことではなく、自分の役割が人の言葉で決まってしまうことが怖かったのだ。
旧市修繕区では、フィンが客のために小さな金具を確かめていた。
手つきが慎重で、見ているこちらもつい息をひそめる。
「どのくらいで慣れるんだろう」
とハインツがつぶやく。
エルンストが耳に留めた。「何に?」
「無理をしないことに」
年配の職人はすぐに答えなかった。
「慣れたからといって、いつもできるわけじゃない」
その答えを聞いて、ハインツは少し笑った。
役に立つ励ましではなかったが、自分の望んでいた言葉だった気がした。
修繕区へ入る前、ハインツは通りの水場で立ち止まった。
桶から水を汲む女が、片方の手で子どもの肩を押さえている。
自分より重いものを、もっと不自由な姿勢で扱っているように見えた
。だからといって、自分はまだ弱音を言ってはいけないと考えかけた。
「痛みの競争をしても仕方ないか」と呟く。
ジュリアが振り向いた。「何か言いました?」
「いや、自分に」
彼女はそれ以上聞かなかった。
ハインツは少し救われた。
話しかけられたくない瞬間もある。
だが、誰も関心を持たないのは嫌だという気持ちもある。その矛盾を自分で持っていればいいのだろうか。
近くの壁に、働き手への依頼を求める紙が貼られていた。
短時間で終わる荷の移動だという。
自分ならできると考え、すぐに右腕の動きが気になった。できないことを突きつけられたのではない。
できるかどうかを確かめるまで、引き受けないという選択が必要なのだ。
「以前なら、もう返事をしていたね」
とハインツが言うと、ヘルマンが静かに「僕も」と返した。二人はそれだけで歩き出した。
通りを抜ける間、ハインツは何度かエリゼーの背中を見た。
歩幅を短くしているようにも見えるが、彼女が何かを眺めているだけかもしれない。
自分のためだと決めれば、腹を立てる理由ができる。
違うと決めれば、寂しさを否定できる。
どちらにも証拠はなかった。
「少し休んでもいい?」と自分から尋ねた。
エリゼーは驚いた顔をしたが、「もちろん」と答え、通行の邪魔にならない場所を一緒に探した。
彼女が場所を決めてくれたことに、今度は腹が立たなかった。
自分が休みたいと言えたからだろうか。
その理由まで、今は確かめなくてよかった。
帰り道、エリゼーが少し後ろを歩いた。
気を使われているのか、単に道を眺めているのか分からない。
彼はそれを確かめずにいることができなかった。
「今朝は、きつい言い方をしたね」
「気にしていたの?」
「君に気づかれたことが、嫌だったのかもしれない」
エリゼーは彼の顔を見た。
「知らないふりをしたら、よかった?」
「それも違う」
二人は黙った。
正しい返事を交換するだけなら、もっと簡単な関係でいられただろう。
しかし簡単な返事を求めていないから、一緒に歩いているのかもしれない。
「僕は、できることを一つずつ自分で決めたい」
とハインツが言った。
「私は、あなたが痛いのを見て、何も言わない人になりたくない」
「それなら、聞いてほしい。代わりに決めないで」
彼女は頷いたが、どこか不満そうだった。
それが安心だった。
エリゼーの気持ちまで、自分の都合のよい形に変えたくなかったからだ。
夜、彼は袖を脱ぐ順番を確かめながら、朝よりゆっくり腕を動かした。
少し面倒だと思った。
それでも、今日は自分で決めた面倒だった。
右腕の回復は単なる身体的な問題ではありません。
心配を受け入れることと、決定権を保つこと。
その二つを、ハインツとエリゼーは別々の言葉で求めています。




