第五部「交易都市編」 第二幕 働く人々と責任の行方 146 決める者の椅子
命じた者と、実際に手を動かす者の距離は短いとは限らない。
エリゼーは、相談のテーブルに並んだ椅子の向きから、その距離を考え始める。
交易相談房の卓は窓のそばに置かれていた。
陽の当たる側に客が座り、奥にはベアトリス・オルネが腰を下ろす。
彼女の椅子だけが少し高いように見えたが、よく見ると足元の床板の色が違うだけだった。
エリゼーは、判断を下す者には高い椅子が必要だと、どこかで思い込んでいたことに気づいた。
今日は短い相談の途中で、四人も通りがかった。
見学の同意を得た範囲で、部屋の端にいる。
話し合われているのは、預かった荷を誰が移動させるかという小さな取引上の問題だった。
「受け渡しまでを引き受けたのであって、その先の運搬は頼んでいない」
商人は落ち着いた声で言う。
向かいの男は、運び手の手配まで含むと思っていたと返した。
ベアトリスは二人の顔を交互に見た。
「その荷を動かす人は、今日ここに来ていますか」
「来ていません」と二人とも答えた。
「では、その人の仕事について、今この場だけで決めてよい範囲は限られますね」
エリゼーの背に、冷たいものが通った。
教会では文書を作る人と、それを受け取って動く人が同じ部屋にいないことがあった。
どこで誤りが生じたかを調べるとき、記録した側の手続きから考え始める。
それが仕事だと思っていた。
けれど、ここで問題になっているのは、書類の行き先ではなく、書類に従って腕や足を使う誰かの時間だった。
「一度、運び手へ確認してもらいましょう」
とベアトリスが言った。
片方の商人が不満そうに息を吐いた。
「また日を改めるのか」
「今日分かることもあります。仕事の範囲を紙で確かめること。これから決めることと、もう決めたと思っていることを分けること」
別に穏やかな人ではない。
彼女は時間を無駄にする人へ厳しい顔をした。
しかし、見えない働き手を議論の外へ置くまいとする姿には、少し疲れも見えた。
相談が途切れたとき、エリゼーは彼女に尋ねた。
「皆の話を聞いても、誰かが不満を持つでしょう。それでも続けられるのですか」
「不満が残らないようにするのが私の仕事だとは、思っていません」
ベアトリスは椅子から立ち上がった。
「話し合った結果に、誰が何を引き受けるかを分かるようにすること。分からない部分を分からないと残すこと。その方が大変な日もあります」
「私も記録係です。書くと、もう決まったように見えてしまうのが怖いことがあります」
「書く人にしか分からない怖さでしょうね」
返事はやさしくも冷たくもなかった。
ベアトリスは自分の仕事に戻り、次の客を呼んだ。
ベアトリスは次の客を待つ間、卓の片側へ空いている椅子をひとつ移した。
エリゼーは何気ないその動作を見ていた。
「さっきの方が来るとき、椅子が一つ足りなかったのですか」
「いいえ。今日は一人で相談に来る方がいるんです。でも、誰かと来たくなったら座れる場所があったほうがいい」
「二人で来たら、事情が変わるかもしれませんね」
「そうですね。話す人が増えれば、話も増えます。正しさが増えるとは限りませんが」
エリゼーは自分の帳面を思い出した。
人物欄を増やしたからといって、誰かの人生が完全に近づくわけではない。
知らない人の席を空けておくという仕草に、自分の記録にも空けておくべき場所があるのだと感じた。
ベアトリスはその椅子を眺めて、「今日は誰も座らないかもしれません」と言った。
その言葉には、無駄になっても残しておきたいものについての静かな決意があった。
相談房の外に出る前、エリゼーは書記が紙を綴じ直す姿を見た。
一頁だけ向きが違い、そのままでも読めないわけではない。
書記は表裏を確かめ、元へ戻す。
誰かに見られなければ、そのまま過ぎたかもしれない仕事だった。
エリゼーは、正しく並べる小さな責任が大きな判断の下に隠れることに気づいた。
自分の教会でも、目立たない仕事をした人の名をどれだけ残してきただろう。
廊下へ出ると、ジュリアが「さっき、声を掛けようとしていましたね」と言った。
「何を?」
「運び手の方がいないことを」
「ええ。でも、あの人が先に言ったわ」
「言われて、ほっとしました?」
「ほっとした。自分では言わずに済んだから」
口にしてみると情けなかった。
誰かが正しいことを言うのを待つほうが、自分で問いを投げるより安全だ。
ジュリアは「私は、あなたが言ってもよかったと思います」と言い、少し間を置いた。
「でも、聞きたいと思った人が、いつも最初に声を出さなくてもいいのかもしれません」
エリゼーは、相手が自分を慰めていないことを感じた。
ジュリアは自分ならどうするかを考えている。
二人の仕事は似ていても、同じ答えに至るとは限らない。
帰り道、エリゼーは港へ荷を運ぶ人の列を眺めた。
ひとりが肩の位置を替えるたび、後ろの者が足を緩める。
契約のどの行にその動きが書かれているのだろう。おそらく、どこにもない。
だが、書かれていないからといって、誰も責任を持っていないわけではない。
窓のそばの椅子を思い出す。
そこに座った人の判断が届く先には、今日も別の椅子に座る暇のない人がいる。
エリゼーは、自分の手帳を開く前に、しばらくその人々の背中を見送った。
責任を語る部屋の外にも、責任を引き受ける人がいます。
ベアトリスは万能の仲裁者ではなく、決められることと決められないことを分ける人として登場します。




