第五部「交易都市編」 第二幕 働く人々と責任の行方 144 休むための契約
魔法を仕事にする者にも、休まなければならない時間がある。
ハインツはその約束の書き方に、思いがけず自分自身の傷を重ねる。
魔法を生業とするものたちが集まる祈祷実務互助会の掲示板。
そこには仕事の値段だけが書かれているわけではなかった。
『作業の範囲、依頼する前に確かめること』
『引き受けられない場合の扱い』
そして、一度仕事を終えた者に次の仕事をすぐ求めないための条件が記されていた。
ハインツは、その最後の行を何度も読んだ。
「働いた人が、自分で休みたいと言えばいいんじゃないのかな」
半ば独り言のつもりだった。
近くにいた女性が振り向いた。
「言えるなら、それでいいんですけれどね」
ロザンヌ・ヴェルと名乗った彼女は、実用祈祷を請け負う仕事をしていると言った。
ロザンヌは落ち着いた声で、疲れているときの自分の声が、依頼人にはいつも通りに聞こえてしまうことがある、と続けた。
「断ったら仕事を失うかもしれない。それが怖い日には、休むという言葉が出なくなるんです」
「だから、先に書いておく……と」
「はい。頼む人も、断る人も、その紙を見られるように」
彼女は指先をこすった。
そこに傷は見えなかったが、ハインツは、傷が見えることと疲れていることは違うのだと思った。
自分の右腕にも、外から分からない違和感が残る日がある。
「祈りなのに、契約にするんですね」
とジュリアが尋ねる。
「祈りだから、という言い方もできます」
とロザンヌは答えた。
「でも、神に向けるものと、人に引き受ける仕事を、私は同じ言葉で済ませたくないんです」
エリゼーは黙って聞いていた。
魔法を使えない彼女にとって、ロザンヌの言葉を羨ましがればいいのか、遠く感じればいいのか、すぐには決められなかった。
ハインツは話を自分の右腕へ戻したくなかった。
ここは他人の仕事の場だ。
自分の傷を説明するために、誰かの労働を比喩として借りるのは違う気がした。
それでも、「休んでいいと書かれているのを読んで、少し腹が立った」と言った。
ロザンヌは怪訝そうに彼を見た。
続けてハインツは言う
「僕はまだ、自分で動ける範囲を決められると思いたいんです。紙に、ここから先は無理だと書かれていると、それを知らない人に先に決められたみたいで」
「私は、その紙を自分で選んで置いているんですよ」
叱責ではなかった。
しかしハインツは返事を失った。
誰かが本人の代わりに限界を書いたのではない。
彼女は自分で書くことで、少なくとも依頼人の前で何度も傷を説明しなくてよくしている。
「それなら、守られるのとは違いますね」
「守られることもあります。けれど私は、選んで守ってもらいたい」
彼女はその言葉を口にして少し笑った。
「立派に聞こえますけど、仕事を断ってから一晩後悔することもあります」
ヘルマンが静かにうなずいた。
案内を断る日にも、似た後悔があるのかもしれない。
ハインツは、問い返さなかった。
帰る前に、ヘルマンは掲示板へ戻った。
依頼の条件は、同じ大きさの文字で揃えられていない。
ある行だけ目立ち、別の行は小さく書かれている。
そこへ一人の依頼人が来て、紙を読まずに立ち去りかけた。
「条件がありますよ」とロザンヌが声を掛けた。
「知っています。急ぎだから、頼めるかと思って」
「急ぎであることは承りました。でも、条件が変わるわけではありません」
客は不満を隠さず去った。
ロザンヌは追い掛けなかった。
断ったばかりの相手を、納得するまで説得することも仕事の一部になるなら、休む時間はどこへ消えるのだろう。
ハインツは声を掛けようとし、何も言わなかった。
彼女はすでに自分で返事をしたのだ。
「よくあることです」
とロザンヌが言ったとき、ハインツはその言葉があまりに慣れて聞こえたのを悲しく思った。
「慣れるのと、平気になるのは違いますか」
と尋ねると、彼女は長いあいだ考えてから
「今日は違います」と答えた。
ハインツは、帰り道で自分の掌を開いてみた。
握れば形が変わる。
人の手には、まだできる動きがある。
その小さな事実を喜びたい気持ちと、以前は考えずにできたことを数えてしまう気持ちが、同時にあった。
休むという選択をした人に、まったく迷いがないと思うのも間違いなのだろう。
ロザンヌが断ったあとも相手の顔を思い出すように、自分も休むと告げたあと、仕事に戻る日を考えてしまう。
何かを望むことと、今それを行うことを分けてよいと、少しだけ思えた。
帰る途中、エリゼーが隣を歩いた。
「さっきの話、聞いていたわ」
「聞こえる場所で話したからね」
「あの人は、あなたと同じだと言いたくなった。けれど、そうじゃないわね」
「違うところもあるし、似ているところもある」
エリゼーはその答えを急いで整理しなかった。
二人の間の沈黙には、これまでなら埋めたくなる穴があった。
今日はそこを空けておける。
宿に帰ると、ハインツは右腕を無理に動かさず、持っていた荷を卓へ置いた。
誰かに命じられたわけではない。
それをエリゼーに見せて安心させるためでもない、と自分では思いたかった。
「今日は、休む」と彼は言った。
その声が自分の耳に思ったより小さく響いた。
弱いから小さいのではなく、まだ慣れていない言葉なのだろう。
エリゼーは「そう」と答えた。
理由も、いつまで休むのかも尋ねなかった。
尋ねなければ冷たいと思われるかもしれない。
しかし返事をするまでの短い間、彼が自分の決定を手放さずに済んだことを、彼女は大切にしたかった。
休息条項は、本人の弱さを公示するためのものとは限りません。
自分が断る言葉を持てるようにする道具にもなります。ハインツとロザンヌの違いも残したままにします。




