第五部「交易都市編」第一幕都市の人口と異なる価値観 140 都市の呼吸
四人はまだ、この街を理解したとは言えない。
それでも離れずに聞いていたいと思うことが、一つの選択になっていく。
街は夜になっても眠らない、と誰かが言った。
エリゼーはその言葉を確かめようと、窓辺へ寄った。
石楔旅舎の前の道では、夜遅くまで人の足音がしている。
しかし昼ほど続かない。
短い静けさがあり、そこへ荷車の軋みが入る。
灯を消す家が一つ、また一つと増えていく。
街が眠らないというより、眠る順番が人によって違うのだろう。
今朝、別々の鐘が鳴ったことを思い出した。
広場の陰で仕事を待っていた者
名前を言ったとたんに少しだけ警戒を緩めた者
帳面に名前を残されることをためらった者。
ひとりひとりの顔をつなげて「八万人」と呼ぶことはできない。
その数字は間違いではないが、彼女が知った人々のどこにも収まらない。
廊下で足音がした。
ジュリアだった。
手帳を抱え、まだ眠そうな目をしている。
「今夜も書いていたの?」
「途中まで。書かなかったところが気になって」
「そう……」
エリゼーは頷いた。
「私も昔、抜けたところを埋めなければ気が済まなかった」
「今は?」
「埋めないほうがいいときもあると思う。でも、見落としたことを都合よく『尊重した』と呼んでしまわないようにしたい」
ジュリアは少し考え
「それは難しいですね」と言った。
エリゼーもそう思う。
二人は同じ職務の言葉を知っているのに、そこから辿る考えは違う。
その違いを詰めていく理由はない。
階下にはハインツがいた。
シメオンに水をもらい、痛みが少し引いて、使いかけた右手をゆっくり動かしている。
無理をしているのではと尋ねようとしたが、エリゼーは隣へ座るだけにした。
「今日はどうしたい?」
とハインツが聞いた。
「まだ決めていない」
「それなら、決めるところから一緒にやろう」
彼の返事は、腕の痛みを口にしないための強がりではなかった。
エリゼーはそう思いたかったが、結論を急がなかった。
彼が話したいことは、彼の言葉で聞けばいい。
ヘルマンが遅れて下りてきた。
彼は昨日描いた紙を広げ、四人の見た道をもう一度見直していた。
「ここへ行けば街が分かる、という場所はなさそうだね」
「そんなものがあったら、面白くないでしょう」
とジュリアが言った。
エリゼーは笑った。
自分なら以前、面白くなくても答えのある場所を選んだだろう。
調べれば分かる事柄に安心し、分からない人の沈黙を誤差として扱わないよう努力してきた。
けれど努力してきたことと、できていたことは違う。
四人は食事を終え、歩く先を決めた。
誰が言い出したのかはっきりしないまま、街の働く人の姿をもう少し見たいという話になった。
あの人たちの生活を知ったふりで語るためではない。
自分たちが分からないまま通り過ぎたところへ、もう一度目を向けるためだった。
窓の外で、昼の荷車の音が近づく。
夜と朝を隔てる鐘が一つあって、そのあとにも別の鐘が鳴る。
どの音が街の始まりなのか、エリゼーには分からない。
朝の食堂には、市場へ向かう客と、まだ眠りたい客が半分ずついた。
シメオンはそれぞれへ同じ量の言葉を掛けるわけではない。
急いでいる者には手短に、話したい者には少し立ち止まって返す。
彼がいつそれを覚えたのか、エリゼーは尋ねなかった。
長い時間を人と過ごす中で身につく知識がある。
昨夜の地図が卓の隅に置かれていた。
ヘルマンは今日の行き先を指で示したが、一本の線へは指を進めなかった。
四人は相談し、まず旧市の方角へ歩いてみることにした。
働く人々の様子をもっと見たいというジュリアの希望と、人の多くない道を歩きたいというハインツの希望が少しずつ折り合った。
「無理なら戻ればいい」とハインツが言った。
宿の窓から見える石の壁には、長い年月の汚れが残っていた。
新しく来た者にはただ古い壁だが、ここに住む人にとっては毎日帰る目印かもしれない。
エリゼーは、街を好きになったと言ってしまうには早いと思った。
嫌いになったわけでもない。
そのどちらとも決めないあいだに、人の声を聞きたい気持ちが少しずつ増えていく。
その変化を、ひとまず今朝の自分のものとして受け取ろうとした。
以前のエリゼーなら、その言葉に不安を覚えただろう。
戻る可能性を先に考えることが、旅への決意を弱めるように思えたからだ。
今は、戻る道を持つからこそ進める日もあると分かり始めた。
ジュリアが手帳を閉じて立った。
ヘルマンは荷を持ち、ハインツは右腕に負担のない方へ包みを下げた。
四人の歩き出す速さは揃わない。
そのたび誰かが足を緩め、別の誰かが少し速めた。
相手と同じ速さにしようと命じる者はいない。
エリゼーは、その不揃いな足音を聞きながら、ここへ来て初めて小さな安心を覚えた。
道の先に何があるかではなく、歩調を合わせ直すことができるという安心だった。
彼女は窓を開けた。
石の匂いに混じって、焼いたパンの匂いと湿った木の匂いが流れ込む。
耳を澄ましても、声は多すぎて一つにはならなかった。
「行きましょう」と彼女は言った。
何かを理解したからではない。
理解しないまま、その中に身を置いてみたいと思ったからだった。
第一幕は街の全貌を説明して閉じるのではなく、四人が理解の不完全さを引き受けるところで区切ります。
次幕では、見聞きした価値観が働く人々の責任の問題として迫ってきます。




