第五部「交易都市編」第一幕都市の人口と異なる価値観 130 商人の娘ではなく
人は紹介された名によって、知らないうちに役割を与えられる。
エリゼーは独立商人アデルの姿に、自分自身の古い思い込みを見る。
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「商人の娘さんなら、この程度は分かっているでしょう」
男の声に、エリゼーは振り返った。
七秤市場の奥で、荷の扱いをめぐって二人の商人が言葉を交わしていた。
女は机の上の見本を確かめ、相手の言葉が終わるまで顔を上げなかった。
「親の仕事は知っています」
彼女は静かに答えた。
「でも、今ここで条件を決めるのは私です」
男は困ったように笑った。
悪意は見えない。
しかし相手を呼ぶ名を変えるつもりもなさそうだった。
エリゼーの横でジュリアが足を止めた。
二人とも話に割って入る理由はない。
けれど女の手が見本の縁で動くのを見ているうち、エリゼーはかつて自分が繰り返した言い方を思い出した。
若い女の記録係を紹介する際、誰に学んだかを先に説明したことがある。
そうしたほうが信用されると思っていた。
本人がどう思ったか、尋ねなかった。
やがて商談が切れ、女が一人で品を片付け始めた。
ヘルマンが店先で道を尋ねると、彼女は行き先を示してから、先ほどの二人に視線を向けた。
「聞こえていました?」
「少しだけ」とエリゼーは答えた。
「なら、私の親が悪い人だと思わないでください。
あの方も、ただ昔からの呼び名に慣れているだけです」
「あなたは?」
「アデル・リュネです」
女は初めて笑った。
「独立して品を扱うようになっても、皆にそう呼ばれるんです。変えてほしいと言い続けるのも、仕事の一部になりました」
その笑いには疲れがあった。
エリゼーは、独立することを喜ばしい話として受け取ろうとしていた自分に気づいた。
自分で判断できるようになるのは大切なことだ。
しかし、その権利を毎日言葉で要求しなければならない人にとって、独立は美しい言葉だけでは済まない。
「記録の仕事をしているんです」
とジュリアが言った。
「なら分かるでしょう。誰の名で帳面を作るかは、あとで効いてくる」
アデルは机から古い札を取り出した。
そこには家の印があり、別の札には彼女自身の名がある。
二枚の札はどちらも取引に使えるという。
ただ、新しい客には説明が必要になる。
「便利なほうを選べばいい、と言われます」
と彼女は言った。
「便利なのは、いつも私のほうじゃない」
エリゼーは、返せる言葉が見つからなかった。
自分にも元の名といま名乗る名について、他人の都合に沿って説明してきた時期がある。
そこへ容易に話を重ねれば、アデルの苦労を自分の物語へ奪い込むことになる。
「その札、両方必要なのですね」
「今のところは」
その答えは敗北でも妥協でもないように聞こえた。
アデルは二つの札を重ねずにしまった。
夕方、エリゼーは宿でジュリアへ
「あなたの仕事を紹介するとき、私が誰かを説明しすぎていたことはないかしら」
と尋ねた。
ジュリアはすぐには答えなかった。
「あったと思います。でも、あなたが悪かったと断言するほど、単純じゃありません」
アデルが見せた札の文字は、どちらも丁寧だった。
古い札には家の印が大きく描かれ、新しい札には彼女の名が中央に書かれている。
商売の印としてどちらが目立つかは分かる。
けれど、彼女の名に付け加えられた小さな線の意味を、エリゼーは聞かなかった。
「大事なのは、客があなたの名を覚えることですか」
とジュリアが尋ねた。
「覚えてくれると助かります。でも、名前だけを知っている人が、私の決定を軽んじないとも限りません」
ジュリアが部屋を出たあと、エリゼーは机の上の白紙を見つめていた。
昔、若い記録係の仕事に保証を与えるつもりで、彼女の名の前へ自分の名を置いたことがある。
悪意はなかった。
むしろ守るつもりだった。
だが、相手が自ら獲得しようとした信用の前に自分の影を作ってしまうこともある。
「変えてください」
というジュリアの声は、赦しより具体的だった。
エリゼーはその違いを忘れないようにした。
アデルは荷の帳面を一冊示した。
そこには日付と品の種類、引き受けた責任の範囲が整然と書かれていた。
「ここへは私の名で記します。もし問題があれば私が答える。その代わり、決めるときにも私の声を聞いてほしい」
エリゼーは、責任を負うことと権限を持つことの間に隙間があるのだと感じた。
仕事が失敗すればその人を責めながら、うまくいくかどうかの決断はほかの人が先にしてしまう。
その不均衡を、自分も仕事場で当然のように見逃してきたかもしれない。
アデルは急に話をやめ、店の奥へ戻った。
商人は会話を終える自由を持っている。
エリゼーは追わなかった。
相手の意志を尊重するとは、聞きたい話が終わるまでそばに留めないことでもある。
「今から変えられる?」
「変えてください。説明する必要があれば、私が話します」
それは赦しの言葉ではなかった。
エリゼーは少し胸が痛んだ。
けれど、傷ついたまま引き受けることが、相手を対等に見る最初の仕事なのだと思った。
アデルは自立の象徴としてではなく、毎日それを説明しなければならない働き手として描きます。
エリゼーとジュリアの関係にも、その問いを静かに返しました。




