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第五部「交易都市編」第一幕都市の人口と異なる価値観 129 住所のない名前

名前を確かめるための欄が、その人の暮らしを証明するとは限らない。

ジュリアは住民簿の外にある生活の重さに出会う。

市住民簿室の廊下で、ジュリアは前にも見かけた係員の背中を見つけた。

エドガー・ハルツはその名が掲げられた小さな机に向かい、書類を順に重ねている。


その前には若い女が立っていた。

「宿は毎晩変わるんです」

女の声は震えていない。


しかしどこか、同じ答えを繰り返すために力を使い果たした響きがあった。


「あなたの名前を記録することはできます」

とエドガーは答えた。


「ただ、ここに住んでいるという扱いになるには、別の確認が要ります」

ジュリアは通りかかっただけだった。


足を止めれば、他人の相談を盗み聞きすることになる。

けれど立ち去るには、彼の机の前を通らなければならなかった。

彼女は壁の掲示へ目を移し、声だけが耳に残るのを止められない。


「働いていることは?」

「それも分かります。でも住所の代わりにはならないんです」

女はそこで口を閉じた。

納得したようには見えない。


エドガーも説得しようとはしなかった。

互いに手続きの境界の前へ来て、その線をどうすることもできないようだった。

女が廊下を去ったあと、ジュリアは礼を言って声をかけた。

「お忙しいなら、またにしますが」

エドガーは彼女の顔を思い出すまで少し間を置いた。


「数の話をした人ですね」

「はい。今日は聞きたいことがあるのではありません」

「それなら珍しい来客です」

彼の笑みにジュリアも笑い返したが、すぐに視線を落とした。


さきほどの相談に触れるのはよくない。

それでも、名簿に載らない人をどう考えているか聞きたい気持ちはある。


「前にお話ししたことを、考えていました。記録には目的があるのですね」

「あります。目的のない欄は、作るほど人を困らせます」

ジュリアは驚いた。

記録を少なくすることに価値があると言うのか。


「詳しく書いたほうが、後の人は助かると思っていました」

「助かる後の人が誰か、分かるときはいいんです。けれど知られたくないことを、今ここで集めてしまうと」

言葉が切れた。


係員は続きを誰かに聞かれるのを恐れたのかもしれない。

ただ、別の帳面を机の端へ寄せた。


ジュリアは記録係としての自分の手を見た。

人の名前を書き留めるとき、いつもそれが保護になると思ってきた。


名を残せば、誰かが生きたことは消えない。

けれど記録されたことで居場所を失う人もいるかもしれない。


「それなら、名前を書かないほうがいいのでしょうか」

「そんなふうに決めたら、今度は必要な人が記録から消えます」

答えは軽くなかった。


彼も、どちらがよいか決められないまま仕事をしている。

ジュリアはそこに、自分より先に答えへ辿り着いた人を見たかったのだと気づいた。


外へ出ると、通りで小さな男の子が自分の名を大声で告げ、母親らしい女に呼び戻されていた。

名前を呼べることは喜びにもなる。

一方で、呼ばれたくないときもある。


街路に面した掲示には、相談の種類ごとに向かう窓口が記されていた。

ジュリアはその案内をゆっくり読んだ。


そこには「記載できる内容」と「その場で判断できない内容」が並んでいる。

判断できないことを正直に書いた札は、頼りないようでいて、無用な約束をしないための大切な文字に思えた。


彼女は自分ならどう書くか考えた。

「ここに住む人を記録する場所」


だが、それでは住む場所を探している人を追い返すように聞こえる。

「住所を持つ人の窓口」

その言葉では住所を持てない人が消える。


どんな名を付けてもこぼれ落ちる人がいるのなら、せめて何を扱えないのかも説明するべきではないか。


エドガーは廊下から掲示を見ていた彼女へ声をかけた。

「何か間違いがありましたか」


ジュリアは部屋へ戻ってから、窓辺に腰掛け、手帳の白い頁を開いた。

そこへ廊下の女の姿を描くことはしなかった。


彼女の衣服や声を思い出せても、それらは名前の代わりにはならない。

今あるのは、女が話していた事実の断片と、それを聞いてしまった自分の記憶だけだ。


書かなかったことが誠実だったのかは分からない。

それでも知らない相手を物語の人物へ変えてしまうことには、まだためらいがあった。


「ありません。ただ、ここでできることと、できないことが丁寧に書いてあると思いました」

「書けば分かる、と考えている人も多いですが、読めない人もいます。私たちも時間があれば口で説明します」


ジュリアは、言葉を残すことだけで記録の責任が終わるのではないと感じた。

読める人がいるだけでは足りない。


何を書けばよいか考える前に、誰に届くための文字なのかを考える必要がある。

その問いは、彼女が独立して仕事をするようになってからも、ときどき後回しにしてきたものだった。


手帳を開きかけ、閉じた。彼女が書きたいのは、廊下の女の詳しい事情ではない。

住所がないという一つの理由で、人が空白になることを当然としてよいのかという自分の問いだった。


その夜

エリゼーが「今日は記録をしなかったの?」と尋ねたとき

ジュリアは答えた。

「書くべきことを、まだ選んでいます」

エリゼーはうなずいた。


以前ならもっと助言したかもしれない。

二人の間に小さな沈黙が落ちた。

ジュリアはその沈黙を、初めてありが

記録に残らないことと、人が存在しないことは違います。

一方、記録を増やせば必ず救われるわけでもありません。

ジュリアに答えを与えず、仕事の倫理として問いを残します。


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