第四部 石片の向こう 117 出発を告げる
延ばした一日が過ぎ、旅立ちが近づく。
ヘルマンは、長く会わなかった相手に、自分の行き先と出発を伝えに行く。
朝の水路には、薄い霧が掛かっていた。
ヘルマンは宿を出る前に、仲間へ行き先を告げた。
「昼までに戻る。今日は、あの人に出発を知らせたい」
エリゼーは頷いた。
「行ってらっしゃい」
ジュリアは帳面を閉じ、ハインツは荷の紐を確かめた。
見送る言葉は短かった。
しかし、もう誰も彼を急がせなかった。
小屋の戸口には、新しい水門の板が立てかけられていた。
相手はその端を削っていた。
ヘルマンが声を掛けると、顔を上げる。
「今日は、仕事はないぞ」
「仕事を頼みに来たんじゃない」
「そうか」
ヘルマンは戸の前へ立ったまま、口を開いた。
「明日、交易都市へ向かう」
相手の手が止まった。
「そうか」
それだけだった。
ヘルマンは、胸の内に準備してきた言葉が急に頼りなくなるのを感じた。
戻ってきた理由。
会わずにいた年月。
もう少しここにいたいという思い。
どれも言いたかったが、最初に伝えるべきことは、ただ行き先だった。
* * *
「都市では、何をするんだ」
相手が訊いた。
「まだ、決めていない。四人で見たいものがあるんだ」
「祈りのことか」
「それもある。人がどう暮らしているかも」
相手は板を足元に置いた。
「お前は昔から、遠くを見ていた」
ヘルマンは首を傾げた。
「そうだったかな」
「近くにいる人の話を聞く前に、遠くのことを考えていた」
返す言葉がなかった。
昨日なら、否定したかもしれない。
けれど今は、その言葉が相手の見ていた自分の姿なのだと受け止めたかった。
「そう見えていたんだ」
そう答えると、相手は少し驚いた顔をした。
「……そうだ」
ヘルマンは息を吐いた。
「君がどう思っていたか、聞かなかったことがある」
相手は顔を上げない。
「今なら聞けると、言い切るつもりもない。でも、聞きたい」
小屋の外で、水が石に当たる音がした。
「今日は、全部は話せない」
相手が言った。
「仕事もある」
「うん」
「それに、全部を話したら何かが元に戻るとも思わない」
「僕も、そうは思わない」
二人はしばらく黙った。
水門の方から、木を打つ乾いた音が二度聞こえた。
ヘルマンは手を貸そうと思ったが、今日は頼まれるまで動かないと決めた。
相手はその音を聞き、窓へ目を向けた。
「昨日直したところだ。今度は大丈夫だろう」
「僕も、そう願う」
「祈りより、明日の点検だ」
二人は少し笑った。
ヘルマンは、以前の自分が欲しかった言葉を思い浮かべた。
許し。
懐かしさ。
戻ってきてよかったという確信。
だが、どれも求める前に相手の口へ置いてしまえば、結局また同じことになる。
* * *
相手は小屋の奥へ入り、一本の細い縄を持って戻った。
「これ、道具をまとめるのに使っていたものだ」
「覚えている」
「お前が結び目をほどけなくしたことも」
ヘルマンは顔をしかめた。
「そんなことまで覚えているのか」
「忘れる理由がない」
一瞬、昔の笑い声に似たものが二人の間を通った。
相手は縄を差し出さなかった。
ただ、掌に乗せて見せた。
「いまは、ほどけるように結ぶことにしている」
ヘルマンは指先を見た。
「そうなんだね」
「固く結べば安心だと思っていた。でも、ほどかなきゃならないときもある」
その言葉の先に、二人の過去を無理に重ねたくはなかった。
ヘルマンは、ただ頷いた。
「教えてくれて、ありがとう」
外へ出ると、村の人々が木材を運んでいた。
水路の脇には昨日の札が立ち、補修箇所を示している。
ヘルマンは振り返った。
「また、この村へ来てもいいかな」
相手はすぐに答えなかった。
「村に来ることを、私が決めるわけじゃない」
「そうだね」
「この家へ来るなら、先に知らせてくれ」
ヘルマンは顔を上げた。
約束でも、拒絶でもない。
自分で決めることと、相手が決めることの境目が、そこにあった。
「分かった」
彼は答えた。
* * *
帰り道、ヘルマンは年長者の家の前を通った。
女性が庭で椅子を拭いている。
「もう行くのかい」
「明日の朝」
「そうか」
女性は布を畳んだ。
「何か分かった?」
ヘルマンは少し考えた。
「昔のことは、前より分からなくなったかもしれない」
「それは困ったね」
女性は笑った。
「でも、今のことは少し分かったよ」
彼女は頷いた。
「それなら、来た甲斐はあったんじゃないか」
ヘルマンは深く頭を下げた。
宿では三人が荷をまとめていた。
エリゼーが彼の顔を見る。
「伝えられた?」
「うん。明日出ることは」
彼女は、言葉の後ろに残ったものを聞かなかった。
「それなら、明日は四人で行きましょう」
ヘルマンは笑った。
「そうしよう」
村の上を夕方の鐘が渡った。
ここに残る人々は、明日も水路を見に行くだろう。
ヘルマンは、その暮らしが続くことを、以前より確かに願っていた。
ヘルマンは出発を告げました。
過去を解決せず、次に会うための約束だけを残します。




