第四部 石片の向こう 116 もう一日の願い
水が戻っても、仕事と話は終わらなかった。
四人は旅程を延ばすかどうか、自分たちの都合だけでなく、村に残る人々の時間も考えて相談する。
出発の朝にするつもりだった荷造りが、なかなか進まなかった。
窓辺には乾かした靴が四足並んでいる。
ジュリアは帳面を一冊ずつ確かめ、ハインツは紐の傷んだ箇所を結び直していた。
エリゼーは道具袋を閉じようとして、ふと手を止めた。
「あと一日、ここにいられるかしら」
誰に尋ねたのか、自分でも分からなかった。
ハインツが顔を上げた。
「僕は構わない。でも、理由を聞いてもいい?」
「水路のこともあるし、ヘルマンのことも」
言ってから、彼女は後半の言葉を取り消したくなった。
自分が他人の事情を、旅程の理由として使ってしまった気がした。
「ごめんなさい。ヘルマンが何を望むかは、本人に聞かないと」
「そうだね」
ハインツは責めずに答えた。
「水路なら、村の人がどの仕事を必要としているか確認しよう。手伝いが増えると、かえって段取りが変わることもある」
ジュリアも頷いた。
「私も、昨日の木札の見方を、現地の若い人ともう一度確かめたいです。でも、頼まれていないのなら押しつけたくありません」
三人は、その場で結論を出さなかった。
旅に出てから、予定を変えることは何度もあった。
雨を避けた日も、橋の傷みで道を選び直した日もある。
ただ今回は、天候や道のせいではない。
自分たちがここにいたいと思ったから、予定を変えようとしている。
その自由を持てることが、エリゼーには少し眩しかった。
教会では、人の都合を見て休む日を決めてきた。
今も責任は消えないが、誰かに頼み、自分の時間を選ぶことはできるのだ。
* * *
ヘルマンは昼近くに戻った。
水路の泥を靴に付けたまま、宿の庭で足を洗った。
「今日、出る予定だったよね」
「それを相談していたの」
エリゼーが言った。
「あなたは、どうしたい?」
ヘルマンは桶の水を捨てる手を止めた。
しばらく黙ってから答えた。
「もう一日、いたい」
言葉がまっすぐに出たことに、彼自身が少し驚いたようだった。
「会いたい人がいるから?」
ジュリアが尋ねかけた。
エリゼーが彼女を見ると、ジュリアはすぐ言い直した。
「答えたくなければ、いいんです」
ヘルマンは笑った。
「そうだね。会いたい人がいる。それと、村の仕事をもう少し見たい」
「なら、宿と、ここを案内してくれた人に相談しましょう」
ハインツが言った。
「四人の時間だけで決めるわけにはいかないものね」
エリゼーも頷いた。
旅に出る前、彼女は仕事の休暇を正式に認めてもらっている。
旅は無期限ではない。
だが、一日の延長は、帰路の余裕を確かめたうえで話せる範囲にあった。
* * *
宿の主人は、空き部屋があると言った。
「ただ、明日は荷を運ぶ人が多い。食事の時間が遅れるかもしれません」
「それで構いません」
ヘルマンが答える。
主人は四人の顔を見た。
「みなさん、それでよろしいんですね」
ジュリアが笑った。
「はい。私たちで決めました」
その言い方を、エリゼーは嬉しく聞いた。
誰か一人に合わせたのではない。
それぞれが、明日の過ごし方を考えた。
午後、エリゼーはハインツと村の広場へ出た。
水路の補修に使った板が、壁際に重ねられている。
子どもたちは乾きかけた道で小石を蹴っていた。
「あなたは、帰りの道が長くなっても大丈夫?」
彼女が訊いた。
ハインツは右腕を曲げてみせた。
「この腕のこと?」
「それもあるわ」
「自分で具合を見ながら決めるよ。今は、一日休めるのはむしろありがたい」
エリゼーは頷いた。
「昔の私なら、あなたがそう言う前に、休むべきだと決めていたと思う」
「昔の君のことを、僕は全部知っているわけじゃない」
彼は静かに言った。
「でも、今の君となら、相談できる」
彼女の胸が痛んだ。
ハインツが知らないことは、まだある。
話すべきかどうか迷っていることも。
けれど、今この場で、彼の言葉を別の意味へ変えたくはなかった。
「ありがとう」
そう答えた。
* * *
夕方、ジュリアは水路の点検をしていた若者へ木札を渡した。
「これは、この村に合うと思いますか」
若者は穴の位置を見て、首を傾げた。
「これだと、雨が降ったとき紐が切れやすい」
「では、もっと上に」
「いや、札より先に、布の方を替えた方がいい」
二人は別の布を探しに行った。
エリゼーはその後ろ姿を見た。
ジュリアは自分の案を認めてもらおうとしているのではない。
役に立つ形に直そうとしている。
それは、書記としての手際だけでは身につかないことだった。
夜、ヘルマンは宿の裏庭に一人で立っていた。
エリゼーが通りかかると、彼は空を見たまま言った。
「一日延ばしてくれて、ありがとう」
「あなた一人のためではないわ」
「分かっている」
彼は笑った。
「それが、ありがたいんだ」
風が水路の音を運んできた。
故郷の音なのに、彼が知っていたものと少し違う。
その違いを聞いていられる時間が、もう一日ある。
四人は、それぞれの明日を持ったまま眠りについた。
四人は相談し、村に一日延泊することを決めました。
誰かの事情を他の三人が勝手に背負うのではなく、それぞれの意思で時間を分け合います。




