第四部 石片の向こう 115 戻った水
夜が明け、村人は再び水路に集まる。
流れを戻すことは、水を通すだけでなく、これからも人が手入れし続ける仕事を受け渡すことだった。
翌朝の空は、雲が薄かった。
昨日の泥が乾き始め、水路の縁には黒い筋が残っていた。
村の人々は早くから集まり、崩れた場所へ新しい石を運んだ。
昨日の事故を知らない者も、持ち場の説明を受けてから働き始める。
「同じところが崩れないように、今日は根元を広くする」
担当者が言った。
「表面だけ直しても、水は下から削る」
エリゼーはその説明を聞きながら、記録保管室の雨漏りを思い出した。
濡れた紙を避けるだけでは足りなかった。
原因を確かめ、誰がどこに移したのか残し、同じ間違いを繰り返さないようにする。
水路と記録は違う。
けれど、壊れたものへ向き合う人の手には、似た慎重さがあった。
* * *
ハインツは休憩所の道具を整えた。
「今日は、僕は釘の仕分けと水運びをする」
自分でそう言った。
エリゼーは頷いた。
「助かるわ」
それ以上、腕について口を出さなかった。
ハインツは少し笑い、器を抱えて歩いた。
ジュリアは若い作業者から教わり、補修した箇所を示す木札を作った。
どの杭を取り替え、いつ水を試しに戻したか。
誰が点検するのか。
村の人々が使う言い方に直してから、札の位置を決めた
。
「文字が読めない人にはどうするんですか」
ジュリアが訊く。
「色の違う縄を一緒に結ぶ」
若者は答えた。
「危ないところは赤い布を付ける。毎日見に来る人には、それで伝わる」
ジュリアは頷き、木札の端に細い穴を開けるのを手伝った。
一つの方法だけでは、誰にも伝わるわけではない。
彼女は旅で何度も、それを学んでいた。
* * *
昼前、担当者が水門の前へ立った。
「少しだけ開ける。全員、下流を見てくれ」
合図が伝わる。
木の仕切りが、わずかに動いた。
細い水が新しく積んだ石の脇を流れ、下流へ向かった。
皆は息を詰めた。
水が一度、土嚢に当たって泡立つ。
そこから溢れないことを確かめ、担当者は次の合図を出した。
もう少し開く。
流れが太くなる。
昨日、畑側へ漏れた場所には、新しい支えが据えられていた。
水がその前を通り過ぎる。
しばらく、誰も声を上げなかった。
最初に笑ったのは、子どもだった。
「戻った!」
水路の下流で、誰かが応じた。
「まだ全部じゃないぞ!」
笑い声が広がった。
喜ぶには早いかもしれない。
しかし、喜んではいけないわけでもなかった。
エリゼーは水面を見つめた。
大きな奇跡は起きなかった。
昨日畑の水を心配していた女性も、今日は少し離れた場所から流れを見ていた。
「苗は半分、残りそうです」
彼女は小さな声で言った。
担当者は頷いたが、簡単に喜ばなかった。
「水が落ち着いたら土を確かめましょう。それまでは近づかないで」
女性は、今度は自分から一歩下がった。
エリゼーはその仕草を見た。
人が自分の判断で引き受けた一歩には、外から与えた命令にはない静かさがあった。
目の前で確かに起きたのは、人々が決めた順番で水が戻っていくという出来事だった。
* * *
夕方、ヘルマンは昨日の相手と二人で、余った杭を倉へ戻していた。
「この辺りは、ずいぶん変わったね」
彼が言った。
「変わらないと、使えないものもある」
相手が答えた。
ヘルマンは木の杭を一本、棚へ置いた。
「昔のまま残っている方が、安心すると思っていた」
「残っているものもある」
「そうだね」
相手は縄を結び直し、少し離れた棚を指した。
「そこに、古い寸法の杭を二本だけ残している」
「どうして?」
「次に直すとき、変わったことが分かるように」
ヘルマンは黙った。
昔のものを残すことは、昔へ戻るためだけではない。
どこが変わったかを知るためにも必要なのだ。
二人が外へ出ると、水路の向こうに夕陽が落ちていた。
流れは静かだった。
「昨日、君が『聞きながら考えればいい』と言ったね」
ヘルマンが言った。
「言った」
「昔、僕は、聞く前に決めることが多かったと思う」
相手はすぐに答えなかった。
「今の仕事でも、考えなしじゃ困る」
「うん」
「でも、人のことは、木の板みたいに測れない」
ヘルマンは顔を上げた。
長い間、喉の奥で止めていた言葉が動きかけた。
「……それでも、僕は」
「今日は、疲れた」
相手は静かに言った。
「続きは、別の日でもいい」
ヘルマンは頷いた。
それ以上は言わなかった。
宿へ戻ると、エリゼーたちは明日の行程を相談していた。
村を離れる予定の日が近い。
ヘルマンは濡れた靴を脱ぎ、窓の外を見た。
その晩、若い作業者は木札を点検し、翌朝の見回りの順番を村人と決めていた。
ジュリアはその相談に加わったが、決まったことを書き留める役に徹した。
道具を用意した人が、今度は自分の名前を札に残す。
誰かが急にいなくなっても、次の人が引き継げるように。
彼女は、紙の中だけで仕事が完成すると思っていた自分に気づいた。
水路には、戻った流れが細い光を映していた。
直したのは、岸と板だけではないのかもしれない。
けれど、人との関係を修理と呼んでよいかどうか、彼にはまだ分からなかった。
水路は応急的に復旧しました。
ジュリアは土地の人が使える点検方法を学び、ヘルマンと再会相手の会話も、結論を急がずに続きます。




