↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
114/231

第四部 石片の向こう 114 崩れる岸

応急補修の終わりが見えてきたころ、水路の一角が崩れる。

村人たちは誰か一人の判断ではなく、互いの声を頼りに流れを止めようとする。


挿絵(By みてみん)

異変に気づいたのは、木の楔を確かめていた若者だった。


「土が動いてる!」

声が上がった瞬間、水路の縁が小さく沈んだ。


昨日まで積まれていた土が、濡れた布を引くようにずるりと落ちる。

続いて、護岸の石が一つ外れた。


水が細い筋となって畑側へ漏れ始めた。


「全員、岸から離れて!」

担当者が叫んだ。


ヘルマンは縄を握っていたが、すぐに離した。

以前なら、力を込めて板を支えようとしたかもしれない。

今は合図を待つと決めていた。


エリゼーは、近くにいた子ども二人を高い道へ誘導した。


「走らなくていい。こっちよ」

子どもの一人が振り返る。


「父さんが、あそこにいる」

「見えているわ。まずあなたたちが離れましょう」


彼女は手を引かなかった。

子どもが歩き始めるのを待ち、後ろに付いた。


* * *


護岸はさらに崩れた。

細い漏れが、幅のある流れに変わる。


畑の持ち主らしい女性が駆け寄り、まだ柔らかい土へ踏み込もうとした。


「苗があるんです!」

担当者が腕を広げた。


「いま入れば、岸ごと落ちる!」

女性は足を止めたが、顔から血の気が引いていた。


「今年の分が、だめになる」

「分かっている。畑を守るために、まず人が残らないと」

担当者の声は厳しかった。


エリゼーは助けになる言葉を探したが、見つからなかった。


損なわれるものの重さを知らずに、大丈夫だとは言えない。

彼女は女性の隣に立ち、高い場所へ移るのを一緒に待った。

泥水が畑の畝を一つ越えた。


「上流の堰を閉めろ!」

人々が走り出す。


ハインツは石袋を持とうとして、右腕の痛みを思い出した。

代わりに近くの作業者へ言った。


「袋を運ぶ人が足りない。僕は道を空ける」

「助かる。倒れた木をどけてくれ」

彼は左手で軽い枝を引き、通路を開いた。


その間に、二人が土嚢を肩に担いで走る。

ジュリアは作業場に置かれた木札を拾い、水路のどこに資材が集まっているか伝えた。


「南の小屋に、長い杭が残っています」

「あれは古い方だ!」

若者が叫ぶ。

「では、新しい杭は?」

「石垣の裏!」


ジュリアは聞いたとおりに伝えた。

勝手に判断しないことが、今は速さにつながった。


水位が少し下がったころ、担当者は足元の地面を見た。


「ここへ入るな。下が空いている」

ヘルマンが頷いた。


相手は彼の方を向いた。

「向こうの支え木を取ってきてくれ。二本でいい」

「分かった」

ヘルマンは走り出しかけ、足を止めた。


「長い方?」

「そうだ」

確かめてから動いた。


昔、聞かずに何かを始めたことが、二人の間に残っているのかもしれない。

しかし今の危険の中で、彼はその答えを探していられなかった。


* * *


水路の向こう岸では、ひとりの祈り手が低く祈っていた。

年若い作業者が、土嚢を持ったままその声を聞いた。


濡れた継ぎ目の付近で、小さく石の動きが止まったように見えた。

祈りによるものか、差し込まれた木の楔が効いたのか、エリゼーには区別できなかった。


少なくとも水そのものが消えたわけではない。

祈り手はすぐに膝をつき、荒い息を整え始めた。

周囲の人々はその人を支えながら、作業を続けていた。


「無理しないで」

誰かが声を掛けた。

祈り手は短く頷いた。


その手は震えていた。

エリゼーは水の入った器を運んだ。

渡す前に、本人が受け取れるか確かめた。


祈りが現実の力を持つ場面を見ても、彼女の中の疑問は消えない。


使える人と使えない人。

届く祈りと、届かない祈り。


違いを説明するより先に、目の前には水を飲む人がいた。


* * *


午後の終わり近く、漏れの勢いが弱まった。

上流からの流れが抑えられ、土嚢が順に並んだ。

だが、崩れた岸はまだ柔らかい。


「今日は、ここで止める」

担当者が言った。


「明日もう一度、石を積む。今は入るな」

村人は不満そうだった。


畑に入った水を早く戻したい者もいる。

先ほどの女性は、崩れた岸を見つめていた。


「明日、苗の根を見に行きたい」と言う。

担当者は頷いた。


「岸の外からなら、私も一緒に見る。入れるかどうかは地面を確かめてからだ」

女性はようやく顔を上げた。


救えたものと救えなかったものは、同じではなかった。

しかし、危険が去るまで待つことも、誰かの仕事を守る行いなのかもしれない。


それでも、誰も崩れた縁へ踏み込まなかった。

ヘルマンは土の付いた掌を見た。


相手が近づいてくる。

「よく、止まったな」


それが水のことか、ヘルマンが合図を待ったことか、彼には分からなかった。


「君たちが指示してくれたから」

ヘルマンは答えた。

相手は目を細めた。


「自分で考えるなとは、言っていない」

「分かっている」

「聞きながら考えればいい」


少しの沈黙。

「……そうだね」

ヘルマンは答えた。


エリゼーは二人の後ろを通り、片づける道具を運んだ。

水路には、いつもの音と違う、低い濁流の響きが残っていた。


直したものが、明日もそのまま保たれる保証はない。

それでも今日は、誰も新たに崩れた岸へ踏み込まなかった。

それを確かめ合うように、人々は一人ずつ道を上がった。

水路が崩れる事故を描きました。

祈りによる助けは現実にあり得ても、危険を消し去る万能の解決にはならず、人々は安全な判断と協力を重ねます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。