第四部 石片の向こう 114 崩れる岸
応急補修の終わりが見えてきたころ、水路の一角が崩れる。
村人たちは誰か一人の判断ではなく、互いの声を頼りに流れを止めようとする。
異変に気づいたのは、木の楔を確かめていた若者だった。
「土が動いてる!」
声が上がった瞬間、水路の縁が小さく沈んだ。
昨日まで積まれていた土が、濡れた布を引くようにずるりと落ちる。
続いて、護岸の石が一つ外れた。
水が細い筋となって畑側へ漏れ始めた。
「全員、岸から離れて!」
担当者が叫んだ。
ヘルマンは縄を握っていたが、すぐに離した。
以前なら、力を込めて板を支えようとしたかもしれない。
今は合図を待つと決めていた。
エリゼーは、近くにいた子ども二人を高い道へ誘導した。
「走らなくていい。こっちよ」
子どもの一人が振り返る。
「父さんが、あそこにいる」
「見えているわ。まずあなたたちが離れましょう」
彼女は手を引かなかった。
子どもが歩き始めるのを待ち、後ろに付いた。
* * *
護岸はさらに崩れた。
細い漏れが、幅のある流れに変わる。
畑の持ち主らしい女性が駆け寄り、まだ柔らかい土へ踏み込もうとした。
「苗があるんです!」
担当者が腕を広げた。
「いま入れば、岸ごと落ちる!」
女性は足を止めたが、顔から血の気が引いていた。
「今年の分が、だめになる」
「分かっている。畑を守るために、まず人が残らないと」
担当者の声は厳しかった。
エリゼーは助けになる言葉を探したが、見つからなかった。
損なわれるものの重さを知らずに、大丈夫だとは言えない。
彼女は女性の隣に立ち、高い場所へ移るのを一緒に待った。
泥水が畑の畝を一つ越えた。
「上流の堰を閉めろ!」
人々が走り出す。
ハインツは石袋を持とうとして、右腕の痛みを思い出した。
代わりに近くの作業者へ言った。
「袋を運ぶ人が足りない。僕は道を空ける」
「助かる。倒れた木をどけてくれ」
彼は左手で軽い枝を引き、通路を開いた。
その間に、二人が土嚢を肩に担いで走る。
ジュリアは作業場に置かれた木札を拾い、水路のどこに資材が集まっているか伝えた。
「南の小屋に、長い杭が残っています」
「あれは古い方だ!」
若者が叫ぶ。
「では、新しい杭は?」
「石垣の裏!」
ジュリアは聞いたとおりに伝えた。
勝手に判断しないことが、今は速さにつながった。
水位が少し下がったころ、担当者は足元の地面を見た。
「ここへ入るな。下が空いている」
ヘルマンが頷いた。
相手は彼の方を向いた。
「向こうの支え木を取ってきてくれ。二本でいい」
「分かった」
ヘルマンは走り出しかけ、足を止めた。
「長い方?」
「そうだ」
確かめてから動いた。
昔、聞かずに何かを始めたことが、二人の間に残っているのかもしれない。
しかし今の危険の中で、彼はその答えを探していられなかった。
* * *
水路の向こう岸では、ひとりの祈り手が低く祈っていた。
年若い作業者が、土嚢を持ったままその声を聞いた。
濡れた継ぎ目の付近で、小さく石の動きが止まったように見えた。
祈りによるものか、差し込まれた木の楔が効いたのか、エリゼーには区別できなかった。
少なくとも水そのものが消えたわけではない。
祈り手はすぐに膝をつき、荒い息を整え始めた。
周囲の人々はその人を支えながら、作業を続けていた。
「無理しないで」
誰かが声を掛けた。
祈り手は短く頷いた。
その手は震えていた。
エリゼーは水の入った器を運んだ。
渡す前に、本人が受け取れるか確かめた。
祈りが現実の力を持つ場面を見ても、彼女の中の疑問は消えない。
使える人と使えない人。
届く祈りと、届かない祈り。
違いを説明するより先に、目の前には水を飲む人がいた。
* * *
午後の終わり近く、漏れの勢いが弱まった。
上流からの流れが抑えられ、土嚢が順に並んだ。
だが、崩れた岸はまだ柔らかい。
「今日は、ここで止める」
担当者が言った。
「明日もう一度、石を積む。今は入るな」
村人は不満そうだった。
畑に入った水を早く戻したい者もいる。
先ほどの女性は、崩れた岸を見つめていた。
「明日、苗の根を見に行きたい」と言う。
担当者は頷いた。
「岸の外からなら、私も一緒に見る。入れるかどうかは地面を確かめてからだ」
女性はようやく顔を上げた。
救えたものと救えなかったものは、同じではなかった。
しかし、危険が去るまで待つことも、誰かの仕事を守る行いなのかもしれない。
それでも、誰も崩れた縁へ踏み込まなかった。
ヘルマンは土の付いた掌を見た。
相手が近づいてくる。
「よく、止まったな」
それが水のことか、ヘルマンが合図を待ったことか、彼には分からなかった。
「君たちが指示してくれたから」
ヘルマンは答えた。
相手は目を細めた。
「自分で考えるなとは、言っていない」
「分かっている」
「聞きながら考えればいい」
少しの沈黙。
「……そうだね」
ヘルマンは答えた。
エリゼーは二人の後ろを通り、片づける道具を運んだ。
水路には、いつもの音と違う、低い濁流の響きが残っていた。
直したものが、明日もそのまま保たれる保証はない。
それでも今日は、誰も新たに崩れた岸へ踏み込まなかった。
それを確かめ合うように、人々は一人ずつ道を上がった。
水路が崩れる事故を描きました。
祈りによる助けは現実にあり得ても、危険を消し去る万能の解決にはならず、人々は安全な判断と協力を重ねます。




