第四部 石片の向こう 111 訪ねる人
ヘルマンは故郷へ帰ってきた。
けれど、村へ帰ることと、会いたかった人のもとへ行くことは同じではなかった。
朝食の席に、ヘルマンだけが少し遅れて現れた。
宿の庭では、昨夜の雨が桶の縁を濡らしていた。
ジュリアは果物の皮を剥き、ハインツは右腕の具合を確かめながら椅子を引いた。
「今日は、ひとりで出かけるよ」
ヘルマンは座る前に言った。
その声が普段より低いことを、エリゼーは聞き取った。
「昼までには戻れると思う。でも、待たなくていい」
「分かったわ」
エリゼーは答えた。
「道が変わっているから、気をつけて」
彼はうなずいたが、出発する気配を見せなかった。
昨日、年長者の家で手渡された干し果実を、まだ一つ、掌の中に持っている。
「何か、頼みたいことはある?」
ハインツが尋ねた。
「いや。ありがとう」
「じゃあ、僕らは村の水路を見てこようと思う。宿の人が、いま手を入れているところを教えてくれた」
「そうか」
ヘルマンの表情がわずかに動いた。
「水路は、子どものころから傷む場所が決まっていた。曲がり角の、石が低くなっているところ」
「そこへ行くかは、まだ分からないけどね」
「そうだね」
彼は果実を卓へ置き、ようやく椅子に腰を下ろした。
* * *
村の北側には、水路をまたぐ狭い道があった。
ヘルマンはそこを一人で歩いた。
昔なら走って通った道だった。
いまは足元の石に新しい継ぎ目がある。
見知らぬ子どもが、桶を両手で抱えて水路を渡った。
「おじさん、そこは滑るよ」
子どもは振り返りもしないで言った。
「ありがとう」
ヘルマンは歩幅を縮めた。
この村を離れたあとも、誰かが石を直し、泥をさらい、子どもに危ない場所を教えていた。
自分が覚えている道には、その年月がない。
昨日、年長者に言われた言葉が耳に残っていた。
「ほかの家まで、いつでも開いていると思わないでおくれ……」
水車小屋の脇で彼は立ち止まった。
戸口に新しい木の板が打ちつけられ、壁の一部だけ色が違う。
ここではなかったかもしれない。
記憶の中の家は、もう少し川から離れていた。
だが、戸の上に吊るされた古い鈴を見つけたとき、胸の奥に沈んでいたものが静かに動いた。
その鈴の音だけは、よく覚えていた。
以前は戸が開くより先に、誰かが呼ぶ声がした。
水車の音が大きい日には、戸を三度叩かなければ聞こえなかった。
記憶は細部まで鮮やかだった。
だが、そこに自分の都合にいい言葉を足そうとしていることにも気づいた。
歓迎してくれるはずだ。
少なくとも、話せるはずだ。
何を根拠にそう思うのだろう。
ヘルマンは手を下ろし、もう一度息を整えてから、戸へ向き直った。
彼が戸を叩くと、すぐには返事がなかった。
内側で木を置く音がした。
足音。
そして、戸がわずかに開いた。
そこに立っていた人は、ヘルマンを見たまま動かなかった。
長い時間が経ってから、ようやく口を開いた。
「……道に迷ったのか」
ヘルマンは首を振った。
「ここへ来たかった」
「そうか」
言葉は、それだけだった。
戸は閉じられなかった。
しかし、中へ入れとも言われなかった。
ヘルマンは、自分が何を期待して来たのか、そこで初めて分からなくなった。
謝るためか。
昔と同じ声を聞くためか。
それとも、もう会えないと思っていた相手が本当に暮らしていると確かめるためなのか。
「仕事の邪魔なら、出直すよ」
「仕事はある」
相手は答えた。
「ずっとある」
戸の向こうでは、流水に合わせて木がきしむ音がしていた。
「ああ」
ヘルマンは頷いた。
「昔も、そうだったね」
「昔の話をしに来たのか」
彼はすぐに答えられなかった。
今さら、昔のことだけを取り出して話せると思った自分が、少し恥ずかしかった。
* * *
しばらくして、その人は戸を広く開けた。
「入り口に立っていると、荷を運ぶ人が通れない」
中へ招く言葉ではなかった。
それでも、道を空けるためヘルマンが一歩脇へ寄ると、相手も一歩退いた。
小屋の中には濡れた板と縄の匂いがあった。
傷んだ水門の部品が床に並べられている。
「村の水路を直しているんだね」
「見れば分かる」
「手伝えることは?」
相手は、ヘルマンの顔をまっすぐ見た。
「それを言うために来たのか」
「違う」
答えは思いのほか早く出た。
「会いに来た」
相手は少し視線を落とし、縄の端を指で押さえた。
「分かった」
それが許しなのか、ただ聞いたという意味なのか、ヘルマンには判別できなかった。
「今日は、長くはいられない」
「そうか」
「また来てもいいだろうか」
沈黙のあと、相手は窓の方を見た。
「来るかどうかは、お前が決めることだ」
ヘルマンはその言葉を聞き、胸を痛めた。
かつて自分が、決めるべきでないことまで決めたのかもしれない。
しかし何についてだったのかを、今ここでひと言にすることはできなかった。
宿へ戻るころには、昼の鐘が鳴っていた。
エリゼーたちは広場で水路の修理予定を聞いていた。
彼女は、戻ってきたヘルマンの顔を見て、何も訊かなかった。
「明日も、少し村に残っていいかな」
「皆で相談しましょう」
彼は頷いた。
掌の中には、出かける前に拾い上げた小さな干し果実があった。
食べる機会を逃したまま、皮だけが少し温かくなっていた。
ヘルマンは長く会わなかった相手を訪ねました。
関係の名前も、隔たりの原因もまだ明かさず、再会した二人が現在の距離を測り始める章です。




