第四部 石片の向こう 110 年長者の家
ヘルマンの帰郷を知った村の年長者が、四人を家へ招く。
子どものころの彼を知る人の言葉から、旅人としての姿とは違う一面が見えてくる。
翌朝、宿の戸口に小さな籠が置かれていた。
中には焼きたてのパンと、日干しの果実が入っている。
籠の底には、短い伝言が添えられていた。
「昼前に、家へ来ておくれ」
差出人の名前を見たヘルマンは、しばらく黙っていた。
エリゼーが声を掛ける。
「知っている方?」
「うん」
「会いに行く?」
ヘルマンは頷いた。
「行こう」
その答えには、昨日の再会とは違う緊張があった。
***
年長者の家は、村の北側にあった。
低い石垣に囲まれ、庭には古い井戸が残っている。
井戸の脇には、使い込まれた木の椅子が置かれていた。
ヘルマンはそれを見て、足を止めた。
「まだ、あったんだ」
「何が?」
ジュリアが訊く。
「この椅子」
彼は少し笑った。
「子どものころ、よくここで叱られた」
家の中から声がした。
「それは、覚えているのかい」
四人が振り向くと、白髪の女性が戸口に立っていた。
腰は少し曲がっている。
しかし目つきは鋭く、ヘルマンを見た瞬間、その顔に複雑な表情が浮かんだ。
「ずいぶん大きくなったね」
「もう、大きくなる年じゃないよ」
ヘルマンが答えた。
「そうかい」
女性は短く笑った。
「私の中では、まだあのころのままなんだよ」
彼女は四人を家へ招き入れた。
***
家の中には、焼いた麦の香りがあった。
低い卓の上に器が並び、庭から入る光が床を照らしている。
女性は一人ずつ名前を聞き、どこから来たのか尋ねた。
エリゼーが教会の記録保管人であると知ると、少し驚いた顔をした。
「遠くから、記録を調べに来たのかい」
「それもあります。でも今は、旅の途中で人々のお話を伺っています」
「それなら、いいものも悪いものも聞くことになるね」
「ええ」
「紙に書けば、みんな同じに見えると思わない方がいい」
エリゼーは静かに頷いた。
その言葉に、長く生きてきた人の重さがあった。
***
食事が始まると、女性はヘルマンの幼いころの話をした。
川へ落ちたこと。
畑で道に迷ったこと。
人の仕事を手伝うつもりで、かえって邪魔をしたこと。
ヘルマンは何度も顔をしかめた。
「もう、その話はいいよ」
「まだ始まったばかりだよ」
女性は笑った。
ハインツも笑い、ジュリアは興味深そうに話を聞いていた。
エリゼーはヘルマンの横顔を見た。
旅の途中で彼は、いつも落ち着いていた。
道を選び、人に尋ね、危ない場所では皆の歩幅を確かめた。
けれど今、目の前にいるのは、かつてこの村で失敗し、叱られ、笑われながら育った一人の人間だった。
案内人という役目の外側に、長い暮らしがあった。
「ヘルマンは昔から、人を助けようとする子だった」
女性が言った。
「そうなのですか」
エリゼーが訊く。
「ええ。ただね」
女性はそこで一度、言葉を切った。
「人を助けたいと思うことと、相手が助けを求めていることは、同じじゃない」
部屋が少し静かになった。
ヘルマンは器を置いた。
女性は彼を見た。
「覚えているかい」
「覚えているよ」
「そうか」
それ以上は言わなかった。
エリゼーも尋ねなかった。
その短いやり取りには、まだ話されていない時間がある。
けれど、それを今ここで明かすかどうかは、二人が決めることだった。
***
食事のあと、ハインツとジュリアは庭の水汲みを手伝った。
エリゼーは女性と卓を片づけていた。
ヘルマンは窓際に立ち、外を眺めている。
「この村には、どのくらい滞在するんだい」
女性が訊いた。
「まだ決めていません」
エリゼーが答える。
「そうかい」
女性は器を重ねた。
「ここは、帰ってくる人を待つ村じゃない。暮らしている人の村だからね」
その言葉に、エリゼーは手を止めた。
「どういう意味でしょう」
「待つだけじゃ、人は暮らせないだろう」
女性は窓の外を見た。
「田畑も、水路も、家も、毎日手を入れなきゃならない。誰かがいなくなっても、仕事は続く」
エリゼーは頷いた。
「戻ってきた人には、その年月が見えにくいのかもしれませんね」
「そうだね」
女性は少し笑った。
「でも、見ようとすることはできる」
***
午後、四人が帰ろうとすると、女性はヘルマンを呼び止めた。
「明日も来るかい」
「来てもいいなら」
「私の家は、いつでも開いているよ」
彼女はそう言った。
そして、少し声を落とした。
「ただ、ほかの家まで同じだとは思わないでおくれ」
ヘルマンは目を伏せた。
「分かっている」
「本当に?」
彼は答えなかった。
女性はそれ以上、追及しなかった。
代わりに、玄関の籠から果実を一つ取り、ヘルマンへ渡した。
「昔は、これが好きだったね」
ヘルマンは受け取った。
「今も好きだよ」
女性は笑った。
四人は家を出た。
帰り道、ヘルマンはしばらく何も話さなかった。
エリゼーは隣を歩いた。
村の水路には、午後の光が揺れている。
遠くで木を打つ音がした。
誰かが屋根を直しているのだろう。
この村では、ヘルマンがいなかった年月も、途切れずに続いてきた。
彼が戻ってきたからといって、その時間がなかったことになるわけではない。
「エリゼー」
ヘルマンが声を掛けた。
「明日、少し一人で出かけてもいいかな」
「もちろん」
「会っておきたい人がいるんだ」
彼女は頷いた。
「私たちは、村を見て回っているわ」
「ありがとう」
ヘルマンは小さく笑った。
その笑みに、これまでの旅で見たことのない緊張が混じっていた。
エリゼーは、それを見なかったことにはしなかった。
けれど、問い詰めることもしなかった。
四人は夕暮れの道を歩いていった。
明日、ヘルマンは一人で誰かを訪ねる。
何が語られるのか、誰もまだ知らなかった。
ヘルマンを幼いころを知る年長者が登場しました。
彼の過去には、まだ明かされていない人間関係があります。次では、彼が長く会わずにいた相手を訪ねることになります。




