第四部 石片の向こう 103 写し取る手
ジュリアは石片の形を紙に残したいと考える。
しかし、記録として残すことと、他人の大切なものを自分の資料にすることは同じではない。
「絵に描いてもよろしいでしょうか」
ジュリアが申し出ると、女主人は一度、手を止めた。
卓に戻そうとしていた器を持ったまま、彼女を見つめる。
「何のために?」
問いには、咎める響きがなかった。
だからこそジュリアは、答えるまでに時間がかかった。
「あとで、見間違えたところを確かめるためです」
「誰に見せるんだい」
「今は、私たちが旅の途中で見返すために」
「帰ってからは?」
そこまでは考えていなかった。
ジュリアは持っていた帳面を閉じた。
「まだ決めていません」
「だったら、決まっていないことも含めて考えておくれ」
女主人は器を棚へ戻した。
「祖母は、この石を人に見せるのが嫌いではなかったよ。でも、勝手に持って行かれるのは嫌がった」
「私は持ち出しません」
「石はね。絵はどうだろう」
ジュリアは黙った。
その横で、エリゼーも答えなかった。
自分が若いころ、同じ質問を受けていたなら、どうしただろう。
おそらく、複製は原物ではないと説明したはずだ。
正しく写せば失われるものはない、と。
しかし、それを決める権利が誰にあるのか。
その問いには、当時の自分も簡単には答えられなかっただろう。
***
話し合いの末、女主人は条件を付けて写生を許した。
石片は動かさない。
表面に紙を当てて写し取ることはしない。
描いた絵は、本人の了解なしに他人へ配らない。
公の資料として扱いたいときは、改めて相談する。
ジュリアは一つずつ復唱した。
「分かりました」
「そんなにかしこまらなくていいよ」
女主人が笑った。
「描いている間、私は昼の支度をする。それだけだ」
ジュリアは小さな帳面を開いた。
最初に外形を描く。
それから欠けた部分へ筆を進める。
線が思うようにつながらない。
石片は、正面から見たときと斜めから見たときとで、輪郭がわずかに違っていた。
「私、きれいに描こうとしています」
不意にジュリアが言った。
「それはいけないの?」
ハインツが尋ねる。
「きれいにすると、欠けたところまで滑らかになってしまうんです」
ジュリアは先ほど描いた線を見た。
紙の上の石片は、実物より整った形をしている。
破断面にある細かな凹凸が消え、もともとそのように作られた品のように見えていた。
彼女は新しい紙を出した。
「こちらは、描き直します」
エリゼーは頷いた。
「最初の絵も残しておくといいわ」
「間違っているのに?」
「どこを整えてしまったのか、後で分かるから」
ジュリアは二枚を並べた。
同じものを見て描いたはずなのに、違う形になっている。
その差に気づいたとき、彼女の顔に、悔しさとは別の表情が生まれた。
***
午後の光は弱くなっていた。
女主人は卓の上に、小さな灯火皿を置いた。
「暗くなる前に終えたいね」
「もう少しだけ」
ジュリアは細い溝を描き始めた。
一本目。
二本目。
途中で曲がる線。
分かれて見える線。
線の深さは紙に表せなかった。
光の角度も、完全には残せない。
彼女は迷った末、図の余白へ短い言葉を書いた。
「斜めから見たときのみ、明瞭」
そのあと、自分で首を振った。
「明瞭、というほどではないですね」
「あなたにはそう見えたんでしょう?」
エリゼーが言った。
「はい。でも、ほかの人には違うかもしれません」
「なら、誰が見たのかも書けばいい」
ジュリアは頷いた。
自分の名前を書き添える。
日付と場所も記した。
それだけで、図がわずかに変わった気がした。
誰にでも通用する石片の姿ではなく、ある日の自分の観察になった。
***
ヘルマンは、庭から薪を運んで戻ってきた。
「終わりそうかい」
「もう少しです」
「じゃあ、僕は水を汲んでくる」
「ヘルマン」
エリゼーが呼び止めた。
「あなたは描いておかなくていいの?」
彼は石片を見た。
「僕が描いたら、きっと道みたいになる」
「道?」
「線を見ると、どうしてもどこかへ続くものを考えるんだ」
「続いていたかどうか、分からないでしょう」
ジュリアが言った。
「そう。だから描かない方がいい」
ヘルマンは笑った。
だが、今度はその笑いが少し寂しそうに見えた。
エリゼーは、旅の初めに彼が見せた道順の覚え書きを思い出した。
通れる道。
雨の日に危ない道。
彼は道を描くとき、その先に人がいることまで考えていた。
石片の溝には、そうした道らしいものが見えるのだろうか。
それとも、別の何かを見たくないのだろうか。
彼女はどちらとも決めなかった。
***
日が傾くころ、ジュリアは帳面を閉じた。
女主人が描いたものを見たいと言ったので、二枚とも差し出した。
「こっちは、最初の絵です。少し形を整えすぎてしまいました」
「そうなのかい」
女主人は二枚を並べた。
しばらく黙って眺め、それから言った。
「どちらも、うちの石には見えるよ」
ジュリアは困ったように笑った。
「正しく描けたか、自信がありません」
「だろうね」
女主人はあっさり答えた。
「それでも、描いてみてよかったんじゃないかい」
ジュリアは石片を見た。
最初に見たときより、ずっと分からないものになっていた。
ただの小さな破片。
けれど、ひとつの線を正確に残そうとするだけで、これほど難しい。
彼女は帳面を胸に抱えた。
「ありがとうございました」
「礼は、片づけが終わってからでいいよ」
女主人が笑った。
ハインツが器を運び、ヘルマンが庭で水を替えた。
エリゼーは布を畳んだ。
ジュリアも帳面をしまい、空になった箱を棚へ戻した。
写し取ったものは、紙の上に残った。
けれど写し取れなかったものの方が、多いのかもしれなかった。
四人は石片を持ち出しません。
写生によって残された情報と、所有者のもとに残る実物を区別しながら、旅を続けます。




