第四部 石片の向こう 102 細い溝
小さな石片の表面には、幾つかの細い筋が走っていた。
四人はそれぞれの目で眺めるが、見えているものさえ必ずしも一致しない。
最初に気づいたのはジュリアだった。
「少し、光の向きを変えていただけますか」
女主人は窓の方を見た。
「陽が動けば変わるだろうけど、それじゃ遅いかい」
「いいえ。お待ちします」
ジュリアはすぐに答えた。
ハインツが笑いをこらえるように口元を緩める。
「君なら、窓際へ運んでもらうくらい言うかと思った」
「持ち主が動かしたくないかもしれません」
「そうだね」
女主人は二人を見て、古い木椅子を引き寄せた。
「じゃあ、ここでお茶でも飲んでいなさい。陽の当たるのを待つくらい、構わないよ」
四人は卓を囲んだ。
女主人が湯を沸かし、庭から戻ったヘルマンが器を配った。
話題は自然に、朝の仕事へ移った。
今年は乾かした果実の出来が悪いこと。
屋根の一角から雨が染みること。
隣家の娘が先日、遠くの村へ嫁いだこと。
石片は卓の上に置かれたままだった。
誰も手を出さない。
そのことを、女主人は特別に褒めもしなかった。
***
しばらくすると、窓から差す光が細く伸びた。
石片の一部が明るくなり、表面の凹凸に淡い影ができる。
ジュリアは椅子を立ち、卓の端にしゃがんだ。
「やっぱり、こちらから見ると違います」
エリゼーも隣へ移った。
先ほどはひびのように見えた線が、今度は細い溝として浮かび上がっていた。
そのうちの幾つかは、互いに似た間隔で走っている。
一本が途中で曲がり、もう一本へ近づく。
合わさったように見える場所もあれば、分かれていくところもあった。
しかし石片が欠けた部分では、どの線も突然終わっていた。
「彫ったのでしょうか」
ジュリアが呟く。
「そう見えるところはあるわ」
エリゼーは答えた。
「けれど、自然にできた筋ではないとまでは言えない」
「こんなふうに揃うことも?」
「私には分からない」
その返事に、ジュリアは顔を上げた。
「分からない、というのは、少し悔しいですね」
「ええ」
エリゼーは笑った。
「昔は私も、そうだった」
「今は違うんですか」
「今も悔しいわ。ただ、悔しさで答えを作らないようにはなった」
ジュリアは再び石片を見た。
細い溝の一つを目で追い、途中で視線を止めた。
「こちら側は、向こうへ続いていたように見えます」
「そうかもしれない。でも、欠けた先は見えないわ」
「もし、ほかの破片があれば」
「あるかどうかも知らない」
二人の会話を、女主人は黙って聞いていた。
***
ヘルマンは長い間、何も言わなかった。
石片を眺めているようで、ときどき窓の外へ目を向ける。
エリゼーは彼の様子に気づいた。
「何か、思い当たることがあるの?」
「いや」
ヘルマンは首を振った。
「似たものを見た覚えがないか、考えていただけだよ」
「見たことは?」
「たぶん、ない」
「たぶん?」
「幼いころに見た物を、全部覚えているわけじゃないからね」
彼は笑おうとした。
けれど、その笑みは長く続かなかった。
エリゼーは追及しなかった。
以前、旅に出る前、ヘルマンが自分の故郷の地名について言った言葉を思い出した。
人の暮らしは、自分の持ち物ではない。
その人自身の記憶も、同じなのだろう。
***
ハインツは卓の反対側から石片を眺めていた。
「僕には、雨が流れた跡にも見える」
「雨?」
ジュリアが振り返る。
「石段の端に細い水筋が残るだろう。あれに似ているような気がした」
「この線は、途中で枝分かれしています」
「水も枝分かれするさ」
「でも、幅があまり変わりません」
「そう見えるね」
ハインツは肩をすくめた。
「僕は、石については君たちより詳しくない」
エリゼーは、彼の言い方が好きだった。
分からないから黙るのではない。
思ったことを差し出し、違うと言われれば引き取る。
昔の自分は、相手の言葉を聞いたあと、それを正しい方向へ直そうとしすぎた。
エランが何かを語り始めると、最後まで聞くより先に、何をすべきか考えてしまった。
そういうときの彼の表情を、今も思い出せる。
責めるような顔ではなかった。
ただ、話している途中で、自分の声が必要とされなくなった人の顔だった。
「エリゼー?」
ハインツが声を掛けた。
彼女は顔を上げた。
「ごめんなさい。少し考え事をしていたの」
「石のこと?」
「それだけではないわ」
彼はそれ以上尋ねなかった。
エリゼーは小さく息を吐いた。
石片の溝は、光が移るにつれて再び見えにくくなった。
さっきまで確かに見えていた線が、消えたように思える。
だが石そのものが変わったわけではない。
変わったのは光と、見る位置だった。
女主人は湯のなくなった器を片づけ始めた。
「ずいぶん長く見ていたね」
「申し訳ありません」
ジュリアが頭を下げる。
「いいよ。ただ、見たものを全部分かった気にならないでおくれ」
女主人の声は、穏やかだった。
「祖母だって、分からないまま持っていたんだから」
エリゼーは、その言葉を心の中に残した。
細い溝の形を具体的に描きましたが、人工物であることさえ確定させていません。
見たものと、そこから考えたことの間には、まだ距離があります。




