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第九章 釣針が見つかった


 綿津見わたつみに聞いた。

「針はまだ見つからないのか」

「見つかった。——昨日」

「…………見つかったのか」

「鯛の腹の中だ。飲み込んでいた。——しかし」

「しかし」

「もう遅い。——骨が溶けていた。海水に。三年も鯛の腹にあったから」

 溶けていた。

 次男が削った骨。返しの角度を何度も調整した骨。内側に少しだけ曲げた返し。——海水に溶けて、形がなくなっていた。

 綿津見わたつみが——手のひらに乗せて見せてくれた。白い粉。骨だったもの。針だったもの。

「…………」

「すまないな。もっと早く探せていれば」

「…………」

 なくなった。

 次男がここにいた最後の証拠が。兄が毎日握っていた針が。——粉になった。

「……持って帰っても——これでは」

「針としては使えない。——しかし」

「しかし」

「骨の粉は残っている。——同じ骨ではないが、この海の魚の骨で作り直せば——形だけは戻せる」

「作り直す。——誰が」

 綿津見わたつみが——黙った。俺を見ていた。底が見えない目で。

「……お前が連れているワニが——毎日珊瑚を集めているのは知っているか」

「知っている」

「あの者は——道具を作りたがっている。指がないから作れない。しかし——作りたがっている」

「……ワニに——作らせるのか」

「作れるかどうかは分からない。——しかし、あの者に骨を渡してみろ。魚の骨を。あの者が何をするか——見ていろ」

 見ていろ。——見る男に、見ていろと言った。

 ワニのところに行った。珊瑚の森の中。いつもの場所。白い砂の平原の端。

 ワニが——珊瑚の欠片を並べていた。集めたものを。大きさ順に。色順に。整然と。

「なあ」

「何だ」

「頼みがある」

「珍しいな。——お前が頼み事をするのは」

 珍しいだろう。俺は見ているだけの男だ。頼むのは——苦手だ。

 魚の骨を出した。綿津見わたつみにもらった。大きな鯛の骨。白い。硬い。

「これで——釣針を作ってくれないか」

 ワニが——止まった。

 金色の目が——骨を見ていた。

「釣針。」

「骨を削って。返しをつけて。——俺が探していた針は溶けていた。もう戻らない。だから——新しく作りたい」

「…………」

「お前は——何かを作りたいと言っていた。手がないから作れないと。——しかし試してほしい」

 ワニが——骨に近づいた。鼻で触れた。嗅いだ。

「…………骨か」

「ああ」

「骨を——削る。返しをつける。内側に——」

 止まった。

 ワニが——自分で言った言葉に止まった。

「——内側に? 今——俺は何を言った」

「内側に、と言った」

「なぜだ。——なぜ俺は『内側に』と言った。内側に何をするんだ。分からない。しかし口が勝手に——」

「…………」

「内側に——曲げる? 返しを? 内側に曲げると——手に馴染む? 使う者のことを考えると——内側に——」

 ワニの体が——震えていた。

 金色の目が——揺れていた。大きく。何かが——浮かんできている。海の底に沈んでいた何かが。

「俺は——これを——知っている」

「…………」

「知っている。——骨を削るのを。返しの角度を。何度も何度も調整するのを。——知っている。なぜ知っている。俺はワニだ。ワニは針を作らない。なのに——」

「…………」

「なぜだ。——なぜ俺の口が勝手に動く。なぜ俺の尾が骨に触りたがる。なぜ——」

 名前を呼びたかった。

 今なら——呼べる気がした。呼んでいいのか。綿津見わたつみは「自分で思い出すまで待て」と言った。しかし——今、目の前で思い出しかけている。あと一歩で。

 ——呼ばなかった。

 呼ぶのは俺ではない。思い出すのはあいつ自身だ。

「……作ってくれ。——お前の体が覚えていることを。信じてくれ」

「…………」

「手がなくても。指がなくても。——お前の中にある『作る』を、信じろ」

 ワニが——骨を噛んだ。歯で。鰐鮫の歯で。

 歯の先で——骨を削り始めた。

 不器用だった。指ではないから。鉈ではないから。歯と顎で——骨を挟んで、歯の先で削っている。

 しかし——動きに迷いがなかった。

 どこを削るか。どの角度で。どれだけ深く。——体が知っていた。

 時間がかかった。どのくらいか分からない。俺は——見ていた。ずっと。ワニが骨を削るのを。歯が骨に当たる音を聞いていた。

 できた。

 ワニが口から——針を落とした。白い砂の上に。

 小さかった。歪んでいた。指で作った針のようには綺麗ではなかった。——しかし。

 返しが——内側に曲がっていた。少しだけ。

 同じだった。次男の癖。内側に曲げる癖。手が変わっても。指が歯に変わっても。——同じ角度。同じ曲がり方。

「…………」

 ワニが——針を見ていた。自分が作ったものを。

「……作れた」

「ああ。——作れた」

「俺が——作った」

「お前が作った」

「…………」

 ワニの金色の目から——何かが溢れた。涙ではなかった。鰐鮫は泣かない。しかし——目の光が揺れていた。金色が揺れていた。

「俺は——作れる。まだ。作れる」

「ああ。——作れる」

「…………」

「ありがとう」

「……礼を言うな。——俺が頼んだんだ」

「違う。——頼んでくれたことに礼を言っている。頼まれなかったら——作ろうとしなかった。作れることに——気づかなかった」

 針を拾った。砂の上から。

 歪んでいた。不格好だった。しかし——返しが内側に曲がっている。次男の針。次男がワニの歯で作った針。

 これを——兄に持って帰る。

 同じ針ではない。しかし同じ手が——同じ癖で作った針。

「……なあ」

「何だ」

「お前の名前——思い出したか」

「…………」

「思い出さなくていい。——思い出さなくても、お前はお前だ。作れる。まだ作れる。——それでいい」

「…………」

「しかし——もし思い出したら。いつか。そのときは——俺に教えてくれ」

「……ああ」

 ワニが——尾を振った。小さく。返事の代わりに。

 針を手に持って——宮に戻った。

 見つかった。——いや、見つかったのではない。作り直された。

 しかし結果は同じだ。針がある。帰る理由がある。

 帰らなければならない。

 花びらの光が薄くなっている。地上の匂いが消えかけている。これ以上いたら——溶ける。

「……帰る」

 声に出した。一人で。部屋の中で。

 重かった。その一言が。


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