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第八章 海底の日々


 日が経った。

 どのくらい経ったか分からなかった。海の底に暦がない。光が明るくなって暗くなる。それを何度繰り返したか。数えていなかった。数える気がなかった。

 朝。桂の木の下で豊玉姫と話す。花の話はもう五巡した。同じ花の名前を五度語った。五度とも——少しずつ違った。

「今日の山吹は——昨日より明るいですね」

「同じ話をしている」

「同じ話なのに違う。——不思議です」

 不思議ではない。語るたびに——豊玉姫の顔を見ながら語るから、花の記憶に豊玉姫が混じっていく。山吹の黄色を思い出すとき、豊玉姫の光が混じって明るくなる。椿の赤を語るとき、豊玉姫の頬の色が混じる。

 花の記憶が——豊玉姫に染まっていく。

 昼。ワニと珊瑚の森を歩く。

 ワニは——変わり始めていた。

 砂に模様を描く回数が増えた。尾で。鰭で。描く模様が——少しずつ複雑になっていた。籠の編み目に似た模様。釣針の返しに似た曲線。

「……今日の模様は細かいな」

「手が——いや、尾が勝手に動く。止められない」

「止めなくていい。——描けばいい」

「何を描いているのか自分でも分からない。——しかし描いた後は気持ちがいい」

 気持ちがいい。——作ることが好きだった男。作ることでしか気持ちが晴れなかった男。手を失っても——体が覚えている。

 ある日。ワニが——珊瑚の欠片を集めていた。

「何をしている」

「集めている。——この珊瑚は形がいい。この貝殻はちょうどいい大きさだ。——何に使うか分からないが、集めたい」

「…………」

「変だろう」

「変じゃない。——集めろ。全部集めろ」

 集めていた。材料を。手がないのに。指がないのに。使い道が分からないのに。——集めずにいられない。

 名前を呼びたかった。毎日。しかし——呼ばなかった。自分で思い出すまで待て、と綿津見わたつみに言われた。

 待っている。——見ている男は待てる。待つのは得意だ。

 夕方。——と呼ぶべき時間。光が暗くなる頃。

 豊玉姫と宮の回廊を歩いた。並んで。近かった。肩が触れるほど。

火遠理ほおりさま」

「何だ」

「ここでの暮らしは——慣れましたか」

「慣れた。——慣れすぎたかもしれない」

「慣れすぎる——というのは」

「帰りたくなくなっている」

「…………」

「帰らなければならないのに。——兄に針を返す約束がある。父が待っている。地上の暮らしがある。——しかし」

「しかし」

「ここにいたいと思っている」

 豊玉姫が——立ち止まった。俺も止まった。

「……嬉しい——と言ってもいいですか」

「いい」

「嬉しいです。——でも」

「でも」

「帰らなければならないのでしょう? いつかは」

「……ああ。いつかは」

「いつかは——いつですか」

「針が見つかったら」

「針が見つからなければ——ずっといてくれますか」

「…………」

 見つからなければいい。そう思っている自分がいた。兄の針が。次男の最後の針が。見つからなければ——帰る理由がない。ここにいられる。

 ——それは。

 それは——次男が作った針を捨てることだ。兄の怒りを放置することだ。父を一人にすることだ。

「……見つかったら——帰る。約束だから」

「…………」

「しかし——帰っても」

「帰っても?」

「……お前のことは忘れない」

 言ってから気づいた。安い言葉だった。忘れないなど。帰る男が置いていく女に言う、一番安い言葉だ。

 豊玉姫は——笑わなかった。

「忘れないでください。——それだけで十分です」

 十分ではないだろう。しかし——十分だと言ってくれた。

 ある夜。

 目が覚めた。部屋の中。珊瑚の壁。青い光。

 懐の花びらを見た。

 ——薄くなっていた。

 光が。花びらの桃色の光が。海の底に来たときは——暗闇の中ではっきり光っていた。道標のように。

 今は——光がぼんやりしていた。弱くなっていた。

 匂いも——薄くなっていた。母の匂い。花の匂い。地上の匂い。残っているが——前より薄い。

 海に溶けかけている。

 ワニのように。長くいると溶ける。名前が。記憶が。地上のものが。——花びらの光が、それを教えている。

 花びらが消えたら。

 花びらの光が消えたら——俺は地上を忘れるのか。父の顔を。兄の声を。母の笑い方を。次男の——名前を。

 起き上がった。花びらを握った。

 まだ光っている。まだ匂いがある。まだ——地上が俺の中にある。

 しかし——薄くなっている。確かに。

 時間がない。のんびりしていられない。針を見つけて。帰らなければ。

 ——帰りたくない。

 帰りたくない。しかし帰らなければ溶ける。溶けたら——二度と帰れない。ワニのように。

 ワニは帰れなかった。帰る前に溶けた。名前を忘れた。自分を忘れた。——俺もそうなるのか。

 花びらを懐に戻した。

 明日——綿津見わたつみに聞く。針はまだ見つからないのか。いつ見つかるのか。

 ——急がなければ。


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