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第七章 豊玉姫


 ある朝。泉のそばで。

 花の話を一巡した後だった。八つの花を二度語り終えて、三度目の山吹に入ろうとしたとき。

火遠理ほおりさま」

「何だ」

「今日は——花の話ではなく」

「ではなく?」

「私の話を——してもいいですか」

 豊玉姫が自分の話をするのは初めてだった。いつも花の話を聞く側だった。問いかける側だった。

「聞く」

「…………」

「聞くから。——話してくれ」

 豊玉姫が——泉の水面を見ていた。自分の顔が映っている水面を。

「私は——ずっとここにいました。生まれたときから。海の底に」

「…………」

「外を知りません。——地上を。空を。風を。花を。全部——話で聞いただけです」

「…………」

「父が言います。海の底には全てがあると。珊瑚がある。貝がある。真珠がある。——何も足りないものはないと」

「足りないのか」

「…………分かりません。足りないものが何か分からない。知らないから。——でも」

「でも」

「あなたが来てから——足りなかったものが分かった」

「何が足りなかった」

「匂いです」

「……匂い」

「海の底には匂いがない。全部が水で。水は匂わない。——あなたが来て、花の匂いがして。初めて『匂い』を知った。それまで——匂いという感覚があることすら知らなかった」

 匂いがない世界。——地上が重さを知らなかったら重いと感じないように。匂いがなければ匂いが足りないとも感じない。

「知ってしまったら——もう知らなかった頃に戻れません」

「…………」

「花の匂いを知ってしまった。花の話を聞いてしまった。毎日違う色があることを知ってしまった。——もう、前の海の底には戻れない」

 豊玉姫の淡い青の目が——俺を見ていた。

火遠理ほおりさま。——一つ、お願いがあります」

「何だ」

「私のことも——見ていてくれますか」

 見ていてくれますか。

「あなたは——見る方ですよね。花を見る。山を見る。海を見る。——見ていると言ってくれるなら、それだけでいい」

「…………」

「花を見るように。——私のことも」

 見ていてくれ、と言われた。

 俺は見る男だ。見ているだけの男だ。鹿を見て射てなかった。母が散るのを見られなかった。弟の名前を呼べずに見ている。

 見ることしかできない男に——見ていてくれ、と言った。

 それは——俺にとって一番できることであり。一番危ういことでもあった。

「……見ている」

「…………」

「見ている。——ずっと」

 豊玉姫が——笑った。光った。海の底が明るくなった。

「ありがとうございます。——では、見せたいものがあります」

「何を」

「ついてきてください」

 豊玉姫が宮の裏に連れていった。初めて入る場所だった。

 洞窟があった。珊瑚の壁が続く洞窟。奥に行くほど暗くなる。豊玉姫の体が光っているから——道が見えた。

「……暗いな」

「暗いところは怖いですか」

「怖くはない。——見えないのが不安なだけだ」

「私が光りますから。——見えますよ」

 光る女に導かれて暗い洞窟を歩く。見えないのに不安がないのは——光っている女が前にいるからだ。

 洞窟の奥に——開けた場所があった。

 天井が高かった。見上げると——光の穴があった。海面まで続く縦穴。はるか上に——光が見えた。

 地上の光だ。

 太陽の光が、縦穴を通って、海の底のこの場所だけに落ちていた。

 光の柱が——洞窟の中に立っていた。

「……何だこれは」

「太陽の道、と呼んでいます。——ここだけ地上の光が届くんです」

 光の柱の中に——何かが漂っていた。小さな粒。光の中で舞っている。

「……花びらか」

「違います。——藻の欠片です。しかし光の中では——花びらのように見えませんか」

 見えた。緑色の小さな欠片が——光の柱の中で舞っていた。花びらではない。しかし——舞い方が似ていた。風に乗って散る花びらに。

「……似てる」

「でしょう? ——私はずっとここに来ていました。一人で。この光の中で藻の欠片が舞うのを見て。花びらというものは——こういうものなのだろうか、と」

「…………」

「違いましたけどね。——あなたの花びらを見たら、全然違った。色が違う。匂いが違う。——本物は、想像より、ずっときれいだった」

 豊玉姫が——光の柱の中に手を入れた。地上の光が、透明な指を照らした。光る指がさらに光った。

「でも——この場所は好きなんです。海の底で唯一、上が見える場所ですから」

 上が見える場所。地上を覗ける場所。

 父が天から地上を覗いていたように。俺が山から海を見ていたように。豊玉姫も——ここから上を見ていた。

 見ている者同士だった。

「……お前は——地上に行きたいか」

「…………」

「行きたいのか」

「行きたいと言ったら——連れていってくれますか」

「…………」

「冗談です。——まだ、冗談です」

 まだ。——「まだ」と言った。「冗談です」ではなく「まだ冗談です」と。

 「まだ」の先に——本気がある。

 光の柱の中で——二人で立っていた。地上の光を浴びて。海の底で。

 豊玉姫の白銀の髪が——地上の光を受けて、金色に見えた。一瞬。海の底の青い光ではなく、地上の光で照らされた豊玉姫は——

 別の顔をしていた。

 青い目が——光の中で金色に変わっていた。淡い青が。金色に。

 ——一瞬だった。光の柱から出たら、また青に戻った。

「……今、目が——」

「え?」

「目の色が——変わった気がした」

「……気のせいですよ」

 気のせいか。——気のせいだろう。

 しかし——見た。見てしまった。光の中で金色に変わった目を。

 何だったのか。分からなかった。

 分からないが——見たいと思った。もう一度。あの金色の目を。

 見る男の性だ。一度見たものは——もう一度見たくなる。

 それが——後で、全てを壊すことになるとは。

 まだ——知らなかった。


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