第六章 桂の木の上
海底で暮らし始めた。
朝——と呼ぶべきか——青い光が明るくなると、桂の木の下に行った。泉のそばに。豊玉姫が来るから。
毎朝来た。壺を持って。水を汲みに。——水を汲むのは口実だろう。壺はいつも半分しか満たさずに帰っていく。
「おはようございます。火遠理さま」
「……ああ」
また「ああ」だ。朝の挨拶が「ああ」。父の血は争えない。
「今日は——花のお話を聞かせてください」
花の話。
豊玉姫は花を知らなかった。海の底に花がないから。花という概念は知っている。しかし見たことがない。一枚の花びら以外は。
教えた。地上の花を。母が教えてくれた花を——俺が豊玉姫に教えた。
「山吹は黄色い花だ。春に咲く。枝が細くて、風に揺れると枝ごと揺れる」
「黄色。——太陽の色ですか」
「太陽の色に近い。しかしもう少し——柔らかい」
「柔らかい黄色。——想像がつかない。見てみたい」
「地上に来れば見られる」
「…………」
豊玉姫が笑った。笑うと——周りの水が光った。この女が笑うと海底が明るくなる。
「椿は赤い。冬に咲く。花ごと落ちる。花びらが一枚ずつ散るのではなく——頭ごと、ぽとりと」
「怖い花ですね」
「怖くはない。——潔い花だと母は言っていた」
「お母さまは——花の神だったのですよね」
「ああ。——花が好きだった。花のそばにいると笑った。花の名前を全部知っていた」
「火遠理さまも全部知っているのですか」
「……全部ではない。母が教えてくれた分だけだ。母が死んでから——新しい花の名前を覚えていない」
「…………」
「止まっているんだ。母が教えてくれたところで。——山吹、椿、藤、梅、桜、菫、撫子、芙蓉。八つ。それしか知らない」
「八つ。——十分です。私は一つも知らなかった」
八つの花の名前を。毎朝一つずつ。泉のそばで。桂の木の下で。
父もこうやって口説いたのだろうか。花の名前で。母に教わりながら。
——逆だ。父は教わる側だった。母が教えた。俺は教える側。逆になっている。
昼はワニと過ごした。
宮の外。珊瑚の森の中。ワニが泳いで、俺が歩いて。速さが違うから——ワニがゆっくり泳いで合わせてくれた。
「ここに何がある」
「何もない。——珊瑚があるだけだ」
「何もない場所を歩くのか」
「歩くのが好きだ。——何もない場所を歩くと、頭が空になる」
「山でもそうだったのか」
「山でもそうだった。獣を追うふりをして——歩いていただけだ。見ていただけだ」
「……見るのが好きか」
「好きだ。——お前は」
「俺は——沈むのが好きだ。深い場所に行くのが」
「深い場所に何がある」
「何もない。——暗いだけだ。しかし沈むと頭が空になる」
歩くのが好きな男と、沈むのが好きな鰐鮫。方向が違うだけで——同じことを求めている。
珊瑚の森を抜けた。白い砂の平原に出た。何もなかった。広いだけ。
ワニが——立ち止まった。尾で砂をかいた。
「……何をしている」
「……分からない。——体が勝手に動く。砂をかくと——何かを作りたくなる」
砂に——跡がついていた。ワニの尾でかいた跡。線が走っている。不規則な線。——しかし。
——模様に見えた。
籠の編み目に似ていた。
「…………」
名前を呼びたかった。火須勢理と。兄が作ってほしいと言うから黙って作っていた弟。うるさい兄と静かな弟の間で、もっと静かだった真ん中の男。
呼ばなかった。綿津見に言われた。自分で思い出すまで待て、と。
「……なあ」
「何だ」
「籠を——見たことがあるか」
「籠。——何だそれは」
「竹を編んで作る入れ物だ。魚を入れたり、果物を入れたり。——地上にある」
「知らない。——しかし」
「しかし」
「編む、という言葉を聞くと——手が動く気がする。手がないから動かないが。——動く気がする」
「…………」
「変だろう」
「変じゃない」
変じゃない。——当然だ。お前は編む手を持っていた。世界で一番器用な手を。
日が経った。——何日経ったか分からなかった。海の底には暦がない。光が明るくなって暗くなる。それだけだ。
豊玉姫に花の名前を教え終わった。八つ全部。
「もうないのですか」
「ない。——俺が知っているのは八つだけだ」
「では——もう一度最初から教えてください」
「同じ話を?」
「同じ話でいいです。——聞くたびに少しだけ想像が変わるんです。山吹の黄色が昨日より濃くなったり、椿の赤が少し暗くなったり」
「……聞くたびに変わるのか」
「花も——毎日違うのですか」
「……ああ。同じ花でも、朝と夕方で色が違う。光の当たり方で。風の強さで。雨が降った後で」
「素敵ですね。——毎日違うのは」
「……ああ」
「海の底は——毎日同じなんです。光の強さが少し変わるだけ。珊瑚は動かない。貝殻は光らない日がない。全部——同じ」
「…………」
「だから——あなたの話が好きです。毎日違う花の話が。同じ花の名前なのに毎日違う話になる」
好き、と言った。話が好きだと。
話が好きなのか。——話をしている俺が好きなのか。聞けなかった。聞く勇気がなかった。見ているだけの男だから。
ある日。
桂の木の上に座っていた。豊玉姫が帰った後。一人で。
——一人ではなかった。ワニが木の根元にいた。
「……お前、いつもいるな」
「いる。——ここが好きだ」
「なぜ」
「木があるから。——海の底で木がある場所はここだけだ。木のそばにいると——落ち着く」
木のそばにいると落ち着く。——地上にいた頃の体が覚えているのだろう。木のそばで道具を作っていた頃の。
「豊玉姫と——仲良くなったな」
「……仲良くはない。花の話をしているだけだ」
「花の話だけで何日も通うのか」
「…………」
「好きなのか」
「……花の話が好きなだけだ」
「お前ではなく——あの方が、お前を好きなのかと聞いている」
「…………」
「あの方は——毎朝来る前に、真珠を編み直している。髪の。お前に会う前に」
「……見たのか」
「見えた。——宮の中を泳いでいると見える」
「…………覗くな」
「覗いていない。見えただけだ」
——それは俺の台詞だ。見ているだけだ、は俺の台詞だ。
「お前に聞きたい」
「何だ」
「ここにいたいか。——ずっと」
「…………」
「針が見つかったら帰るのか」
「帰らなければならない。——兄に針を返す約束だ」
「約束か。——約束は大事か」
「大事だ」
「約束と——ここにいたいのと、どちらが大事だ」
「…………」
答えられなかった。
帰らなければならない。兄の針を返す。父が待っている。地上の生活がある。
しかし——ここにいたかった。海の底に。毎朝泉で花の話をして。昼にワニと珊瑚の森を歩いて。
懐の花びらが——まだ光っていた。乾いていない。母の匂いが消えていない。地上のものが——まだ、俺の中にある。
しかし——日ごとに薄くなっている気がした。花びらの光が。匂いが。地上の記憶が。
海に溶けていくのか。ワニのように。長くいると——溶けるのか。
「……まだ分からない」
「分からないか。——分からないなら、もう少しいればいい」
「…………」
「針はまだ見つからない。——もう少しだけ」
もう少しだけ。
もう少しだけ——ここにいる。




