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第五章 綿津見の宮


 豊玉姫が——案内してくれた。宮の中を。

「父に会わせます。——花びらを持っていてください。父は珍しいものが好きですから」

「珍しいもの。——花びらが珍しいのか。地上ではどこにでもある」

「ここには一枚もありません。——珊瑚はある。貝はある。真珠はある。でも花だけは——海の底に咲かない」

 花が咲かない世界。花びらが舞わない世界。

 母が見たらどう思うだろう。花のない場所を。——悲しむか。あるいは——一輪でも咲かせようとするか。たぶん後者だ。あの人は——花を咲かせずにいられない人だった。

 宮の中は広かった。珊瑚の柱が並んでいた。天井が高い。貝殻が天井に埋め込まれていて——光を放っていた。青白い光。海の底の光。

 高天原たかまがはらの宮殿は白い光だったと父は言っていた。大山津見おおやまつみの屋敷は岩と木の色だった。綿津見わたつみの宮は——青い。全部が青い。青の中に白い光が散っている。

 奥の間に着いた。

 座っていた。

 ——大きくはなかった。

 大山津見おおやまつみは山のように大きかった。横に広く、厚みがあった。綿津見わたつみは——普通の大きさだった。人間とさほど変わらない。

 しかし——深かった。

 目が深かった。黒い目。底が見えない目。海そのものが目の形をしている。海の表面は穏やかだが底が見えない——あの感覚。

 髪が白かった。長い。床に広がっている。海藻のように。顔は穏やかだった。皺がある。笑っているように見える。——笑っていた。本当に。

「——来たか。地上の者」

 声が深かった。低いが——大山津見おおやまつみのように地を揺らさない。水の底から湧いてくる声。

綿津見わたつみ

「ああ。——お前がワニの言っていた男か。花の匂いがすると」

「ニニギの息子だ。火遠理ほおり

「ニニギ。——天から降りた天孫の息子か。天孫の子が海の底まで来るとは。天の血は——好奇心が強いな」

「好奇心で来たのではない。——釣針を探しに来た」

「釣針」

「兄の釣針を海に落とした。兄に——探してこいと言われた」

 綿津見わたつみが——笑った。声を出して。

「釣針一本のために——海の底まで来たのか」

「一本のためだ」

「大した針なのか」

「大した針だ。——弟が作った針だ。三年前に海で消えた弟が。最後に残した一本だ」

 笑いが——消えた。

 綿津見わたつみの目が——変わった。穏やかさの奥に、何かが動いた。

「弟。——海で消えた弟がいるのか」

「三年前に。嵐で。——遺体は見つからなかった」

「…………」

「針を探しに来た。——しかし、それだけではない」

「他に何を探している」

「……弟を」

 綿津見わたつみが——黙った。長い沈黙だった。海の底の沈黙は地上より深い。音が吸い込まれていく。

「……お前を案内したワニ。——あの者を、よく見たか」

「見た。——話した。花の匂いを覚えていると言っていた。名前を忘れたと言っていた。何かを作る手を持っていた気がすると——」

「…………」

「知っているのか。あのワニが何者か」

 綿津見わたつみが——立ち上がった。

「来い。——見せるものがある」

 宮の奥。別の部屋に通された。豊玉姫はついてこなかった。綿津見わたつみと二人きり。

 部屋の中に——棚があった。珊瑚でできた棚。その上に——道具が並んでいた。

 籠。小さな籠。編み目が細かい。

 鍬の柄。木でできた柄。

 釣針。骨でできた釣針。——何本も。

「…………」

「三年前——嵐の夜に、一人の男が海に落ちてきた。岩場から。沈んでいった。——儂が拾った」

「…………」

「死にかけていた。海の底では地上の者は生きられない。しかし——この男は手に骨を握っていた。針を削りかけの骨を。嵐の中で岩場にいたのは——この骨を探していたからだろう」

「……兄の道具を直すための骨だ」

「そうか。——儂はこの男を助けた。しかし地上の体のままでは海底で生きられない。だから——海の者に変えた」

「海の者に——」

「ワニに。——海の底で生きられる体に。代わりに——地上の記憶が溶けた。海に馴染むために。名前を。出自を。手の記憶を。全部——海に溶かして、ワニとして生き直した」

 あのワニは——やはり次男だった。

 火須勢理ほすせり

 綿津見わたつみに助けられて、ワニに変わって、三年間海の底にいた。名前を忘れて。自分が何だったか忘れて。しかし——手の記憶だけが残っていた。何かを作りたいという衝動だけが。

「あの者は——今のままでいい。ワニとして。海の底で」

「……なぜだ」

「地上に戻れば——死ぬ。海の者に変えた体を地上に戻すことはできない。戻そうとすれば——体が持たない」

「…………」

「名前を呼べば——思い出すかもしれない。しかし思い出しても帰れない。思い出すことが——苦しみになる」

 名前を呼べば思い出す。しかし帰れない。思い出すだけが——苦しみ。

 分かっていた。木の上で迷った理由。名前を呼びたかったが呼べなかった理由。呼んだら壊れると思った理由。——正しかった。

「……俺は——あいつに会った。話した。弟のことを聞いた。——あいつは『内側に曲げる癖がある』と俺が言ったとき、尾を揺らした」

「…………」

「忘れていない。全部は。——体が覚えている。名前は溶けても、手の癖は溶けなかった」

「……そうだろうな。——あの者は毎日、鱗で珊瑚を削ろうとしている。何かを作ろうとしている。指がないから作れない。それでも——削ろうとする」

「…………」

「釣針。——お前が探している針は、たぶん魚の腹の中だ。この海にいる鯛が飲み込んだのだろう。——探してやる。しかし時間がかかる」

「どのくらい」

「分からない。海は広い。——その間、ここにいろ。宮に。客として」

「…………」

豊玉姫とよたまひめが喜ぶ。——花の匂いがする者は珍しいからな」

 綿津見わたつみが——笑った。穏やかに。大山津見おおやまつみの笑いとは違った。大山津見おおやまつみは笑いの奥に刃があった。綿津見わたつみの笑いは——波のようだった。寄せて、引いて、跡が残らない。

「一つだけ——条件がある」

「何だ」

「ワニには——名前を呼ぶな。まだ」

「…………」

「あの者が自分で思い出すまで——待て。外から名前を押しつけるな。思い出すなら——あの者自身の力で」

 外から押しつけるな。自分で思い出すまで待て。

「……分かった」

「いい答えだ。——豊玉姫に部屋を用意させる。好きなだけいろ」

 部屋をもらった。珊瑚の壁。貝殻の床。窓から——青い光が入っていた。

 一人になった。

 棚の上に並んでいた道具を思い出していた。籠。鍬の柄。釣針。全部——次男が海の底で作ろうとしたものだ。指がないから作れない。鱗で削っても形にならない。それでも作ろうとしている。

 三年間。毎日。

 ——泣けなかった。

 泣く場面なのかもしれない。弟が生きていた。しかしワニになっていた。帰れない。名前を呼べない。

 しかし——生きていた。

 生きているなら——まだやれることがある。名前を呼べなくても。帰れなくても。

 何ができるか。分からない。——しかし、ここにいる。海の底に。弟と同じ場所に。

 窓の外を——ワニが泳いでいた。金色の目が——こちらを見ていた。

 手を振った。ワニが尾を振った。——返してくれた。

 それだけで——少し、楽になった。


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