第四章 ワニ
ワニが門の横に寝転んだ。長い体を丸めて。大きな輪のようになった。尾の先が顎の下に来ていた。どうやら一緒に待つつもりらしい。
「綿津見さまには——姫さまを通して伝えてもらう。姫さまが毎朝泉に来る。そのとき話す」
「姫?」
「綿津見さまの娘だ。——豊玉姫という」
ワニが門の横に寝転んだ。長い体を丸めて。猫のように——いや、鰐鮫は猫のようには丸まらない。大きな輪のようになった。尾の先が顎の下に来ていた。
静かだった。海の底は静かだ。波の音がない。風の音がない。ただ水が——かすかに振動している。
「……聞いていいか」
「何だ」
「お前の弟——どんな男だった」
「…………」
「花の匂いがする弟か。——どんな男だ」
「花の匂いがするとは言ってない。俺の懐の花びらの匂いだ」
「そうか。——で、どんな男だ」
どんな男だったか。
「……静かな男だった。兄と俺の間にいて。兄がうるさいから、間で黙っていた」
「…………」
「手先が器用だった。道具を作る。籠を編む。釣針を削る。——何でも作った。壊れたものを直すのも得意だった」
「……道具を作る男か」
「ああ。——作るときに癖があった。何でも少し内側に曲げる。籠の編み目も、鍬の柄も、釣針の返しも。少しだけ内側に」
ワニが——動いた。尾が揺れた。小さく。
「内側に。」
「ああ。——なぜそうするのか聞いたことがある。『内側に曲げた方が手に馴染む。使う者のことを考えると、内側に曲がる』と言っていた」
「…………」
「変な癖だろう」
「……変ではない」
ワニの声が——小さくなった。
「使う者のことを考えると内側に曲がる——か。……変ではない。いい癖だ」
「…………」
「その弟は——名前は何と言った」
「火須勢理」
「ホスセリ。」
繰り返した。ワニが。声が——震えた。金属が擦れるような声が——揺れた。
「……知っているのか。その名前を」
「…………」
「おい。——知っているのか」
「……覚えていない。——しかし、聞いたことがある気がする。名前を呼ぶ者がいないと忘れると——言ったろう」
「忘れた名前を——聞いたことがあるのか」
「分からない。——分からないんだ。ここに長くいると、前のことが溶けていく。海に溶けていく。自分が何だったか。どこにいたか。——全部溶ける」
ワニの金色の目が——揺れていた。
「……お前は——もともと何だったんだ」
「分からない。——覚えていない」
「地上にいたことは」
「分からない」
「海の底で生まれたのか」
「……違う気がする。しかし覚えていない」
覚えていない。名前も。出自も。前にいた場所も。全部——海に溶けた。
しかし——花の匂いを「昔嗅いだことがある」と言った。地上のものの匂いを覚えている。体は忘れても——鼻が覚えている。
「……一つだけ。——覚えていることがある」
「何だ」
「手が。——何かを作りたいと思うことがある。ここにはないものを。鱗の代わりに骨を削りたいと思う。尾の代わりに指で編みたいと思う。——しかし手がない。鰐鮫だから。だから——作れない」
「…………」
「何かを作る手を持っていた気がする。——長い間。何かを作って、誰かに渡して。それが——嬉しかった気がする」
手で何かを作る。誰かに渡す。
——次男だ。
分かった。分かってしまった。
このワニは——火須勢理だ。
三年前に海に消えた次男が。嵐で岩場から落ちて。死んだのではなく——海に沈んで。沈んで、沈んで、底に着いて。——ワニになった。
名前を忘れた。自分が何だったか忘れた。しかし手の記憶が残っている。作る手。内側に曲げる癖。
「…………」
言うべきか。お前は俺の弟だと。火須勢理だと。
——言えなかった。
言って、思い出させて、苦しめるかもしれない。海の底でワニとして暮らしている者に——「お前は人間だった」と言うのは残酷かもしれない。
しかし——。
名前を呼びたかった。
兄は名前を呼ばなかった。俺も呼ばなくなっていた。三年間。誰も——火須勢理の名前を呼ばなかった。だから忘れた。名前を呼ぶ者がいないから忘れた。
——名前を呼ぶのは大事だと。アメノウズメが言っていた。
しかし今ではない。今言えば——壊れるかもしれない。ワニとしての三年間が。海の底の暮らしが。
もう少し——見ていよう。もう少し近くで。確かめてから。
見る男の癖だ。——しかし今は、それでいい。
夜が来た——のかもしれない。海の底に昼と夜の区別はなかった。青い光が少しだけ暗くなった。それだけ。
門は大きかった。珊瑚でできた柱。貝殻でできた壁。白い光が中から漏れている。大山津見の屋敷が山から生えていたように——この宮は海の底から生えていた。
門の横に木が立っていた。海の底に——木。枝がある。葉がある。花はない。しかし生きている。
桂の木だった。地上にもある木。なぜ海の底に。
根元に泉があった。海の中なのに泉。海水ではない水が岩の間から湧いて、玉のように溢れていた。
木に登った。山の男だから。木があると足が動く。枝の上に座った。泉を見下ろした。水面に自分の顔が映っていた。疲れた顔だった。
ワニが木の根元で丸くなっていた。眠っているのか起きているのか分からなかった。
木の上で眠った。枝に背を預けて。山で夜を過ごすのと同じだ。
朝——と呼ぶべきか。光が明るくなった。
泉で顔を洗おうとした。木を降りかけて——止まった。
——下に人がいた。
泉のそばに。水を汲んでいる。壺を持って。
女だった。——光っていた。
髪が白銀だった。長い。水のように流れている。重力がないかのように揺れている。髪の間に真珠が編み込まれていた。星のように。衣も白かった。透き通った白。海の水を光に変えて纏っているような衣。裸足の足元で水が輝いていた。
海の底は暗い。青い光があるだけの暗い場所。——この女がいる場所だけが、明るかった。浅瀬に陽が差しているように。
女が水面を覗き込んだ。——止まった。
泉の水面に——俺の顔が映っていた。木の上の俺の顔が。
女が顔を上げた。木の上を見た。
目が合った。
淡い青の目だった。海の色。しかし深い青ではなく——浅瀬の青。光を通す青。光そのものが目の形をしている。
透明だった。しかし暗い透明ではない。光る透明。水に陽が差したときの、あの輝き。
「…………」
「…………」
女が——壺を落とさなかった。落としかけて——両手で受け止めた。
「……あなたは——」
声が水の音に似ていた。川の音ではない。もっと深い。泉が湧く音。静かで、冷たくて、途切れない音。
「……上から落ちてきた者だ」
「上——地上の方ですか」
「ああ。——ニニギの息子だ。火遠理」
「火遠理さま……」
女が——泉の水面を見た。もう一度。俺の顔が映っている水面を。
「あなたの顔が——泉に映っていました。知らない顔が。——でも」
「でも」
「花の匂いがします」
また花の匂い。
「あなたは——豊玉姫か。ワニが言っていた」
「ワニが——ああ。あの子がお連れしたのですね」
ワニが目を覚ました。——いや、起きていたのかもしれない。金色の目が俺たちを見ていた。
「花の匂いがする地上の方が来たと——あの子が伝えてくれました。だから今朝は早く来たのです。——見たくて」
見たくて。花の匂いがする者を。
「……見せてもいいか。花びらを」
「——見せてください」
木を降りた。枝を掴んで。泉のそばに立った。近かった。
懐から花びらを出した。桃色の花びら。海の底で光っている母の花びら。
豊玉姫が手を伸ばした。花びらに触れようとして——止まった。
「触れても——いいですか」
「いい」
指が花びらに触れた。光る指。水と光でできたような指。
「…………」
「……きれいですね」
三度目だった。ワニが二度言った。この女が三度目。
しかし——三度目が一番静かだった。一番深かった。
海の底で花を見た女の目が——光っていた。浅瀬の青が。
何か言おうとした。名前を呼ぼうとした。——口が動かなかった。
また。
父もこうだったらしい。花の前で声が出なくなったと。——親子だな。




