表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/17

第四章 ワニ

挿絵(By みてみん)

仮置きイメージ、山幸彦と豊玉姫


 ワニが門の横に寝転んだ。長い体を丸めて。大きな輪のようになった。尾の先が顎の下に来ていた。どうやら一緒に待つつもりらしい。

綿津見わたつみさまには——姫さまを通して伝えてもらう。姫さまが毎朝泉に来る。そのとき話す」

「姫?」

綿津見わたつみさまの娘だ。——豊玉姫とよたまひめという」

 ワニが門の横に寝転んだ。長い体を丸めて。猫のように——いや、鰐鮫は猫のようには丸まらない。大きな輪のようになった。尾の先が顎の下に来ていた。

 静かだった。海の底は静かだ。波の音がない。風の音がない。ただ水が——かすかに振動している。

「……聞いていいか」

「何だ」

「お前の弟——どんな男だった」

「…………」

「花の匂いがする弟か。——どんな男だ」

「花の匂いがするとは言ってない。俺の懐の花びらの匂いだ」

「そうか。——で、どんな男だ」

 どんな男だったか。

「……静かな男だった。兄と俺の間にいて。兄がうるさいから、間で黙っていた」

「…………」

「手先が器用だった。道具を作る。籠を編む。釣針を削る。——何でも作った。壊れたものを直すのも得意だった」

「……道具を作る男か」

「ああ。——作るときに癖があった。何でも少し内側に曲げる。籠の編み目も、鍬の柄も、釣針の返しも。少しだけ内側に」

 ワニが——動いた。尾が揺れた。小さく。

「内側に。」

「ああ。——なぜそうするのか聞いたことがある。『内側に曲げた方が手に馴染む。使う者のことを考えると、内側に曲がる』と言っていた」

「…………」

「変な癖だろう」

「……変ではない」

 ワニの声が——小さくなった。

「使う者のことを考えると内側に曲がる——か。……変ではない。いい癖だ」

「…………」

「その弟は——名前は何と言った」

火須勢理ほすせり

「ホスセリ。」

 繰り返した。ワニが。声が——震えた。金属が擦れるような声が——揺れた。

「……知っているのか。その名前を」

「…………」

「おい。——知っているのか」

「……覚えていない。——しかし、聞いたことがある気がする。名前を呼ぶ者がいないと忘れると——言ったろう」

「忘れた名前を——聞いたことがあるのか」

「分からない。——分からないんだ。ここに長くいると、前のことが溶けていく。海に溶けていく。自分が何だったか。どこにいたか。——全部溶ける」

 ワニの金色の目が——揺れていた。

「……お前は——もともと何だったんだ」

「分からない。——覚えていない」

「地上にいたことは」

「分からない」

「海の底で生まれたのか」

「……違う気がする。しかし覚えていない」

 覚えていない。名前も。出自も。前にいた場所も。全部——海に溶けた。

 しかし——花の匂いを「昔嗅いだことがある」と言った。地上のものの匂いを覚えている。体は忘れても——鼻が覚えている。

「……一つだけ。——覚えていることがある」

「何だ」

「手が。——何かを作りたいと思うことがある。ここにはないものを。鱗の代わりに骨を削りたいと思う。尾の代わりに指で編みたいと思う。——しかし手がない。鰐鮫だから。だから——作れない」

「…………」

「何かを作る手を持っていた気がする。——長い間。何かを作って、誰かに渡して。それが——嬉しかった気がする」

 手で何かを作る。誰かに渡す。

 ——次男だ。

 分かった。分かってしまった。

 このワニは——火須勢理ほすせりだ。

 三年前に海に消えた次男が。嵐で岩場から落ちて。死んだのではなく——海に沈んで。沈んで、沈んで、底に着いて。——ワニになった。

 名前を忘れた。自分が何だったか忘れた。しかし手の記憶が残っている。作る手。内側に曲げる癖。

「…………」

 言うべきか。お前は俺の弟だと。火須勢理ほすせりだと。

 ——言えなかった。

 言って、思い出させて、苦しめるかもしれない。海の底でワニとして暮らしている者に——「お前は人間だった」と言うのは残酷かもしれない。

 しかし——。

 名前を呼びたかった。

 兄は名前を呼ばなかった。俺も呼ばなくなっていた。三年間。誰も——火須勢理ほすせりの名前を呼ばなかった。だから忘れた。名前を呼ぶ者がいないから忘れた。

 ——名前を呼ぶのは大事だと。アメノウズメが言っていた。

 しかし今ではない。今言えば——壊れるかもしれない。ワニとしての三年間が。海の底の暮らしが。

 もう少し——見ていよう。もう少し近くで。確かめてから。

 見る男の癖だ。——しかし今は、それでいい。

 夜が来た——のかもしれない。海の底に昼と夜の区別はなかった。青い光が少しだけ暗くなった。それだけ。

 門は大きかった。珊瑚でできた柱。貝殻でできた壁。白い光が中から漏れている。大山津見おおやまつみの屋敷が山から生えていたように——この宮は海の底から生えていた。

 門の横に木が立っていた。海の底に——木。枝がある。葉がある。花はない。しかし生きている。

 桂の木だった。地上にもある木。なぜ海の底に。

 根元に泉があった。海の中なのに泉。海水ではない水が岩の間から湧いて、玉のように溢れていた。

 木に登った。山の男だから。木があると足が動く。枝の上に座った。泉を見下ろした。水面に自分の顔が映っていた。疲れた顔だった。

 ワニが木の根元で丸くなっていた。眠っているのか起きているのか分からなかった。

 木の上で眠った。枝に背を預けて。山で夜を過ごすのと同じだ。

 朝——と呼ぶべきか。光が明るくなった。

 泉で顔を洗おうとした。木を降りかけて——止まった。

 ——下に人がいた。

 泉のそばに。水を汲んでいる。壺を持って。

 女だった。——光っていた。

 髪が白銀だった。長い。水のように流れている。重力がないかのように揺れている。髪の間に真珠が編み込まれていた。星のように。衣も白かった。透き通った白。海の水を光に変えて纏っているような衣。裸足の足元で水が輝いていた。

 海の底は暗い。青い光があるだけの暗い場所。——この女がいる場所だけが、明るかった。浅瀬に陽が差しているように。

 女が水面を覗き込んだ。——止まった。

 泉の水面に——俺の顔が映っていた。木の上の俺の顔が。

 女が顔を上げた。木の上を見た。

 目が合った。

 淡い青の目だった。海の色。しかし深い青ではなく——浅瀬の青。光を通す青。光そのものが目の形をしている。

 透明だった。しかし暗い透明ではない。光る透明。水に陽が差したときの、あの輝き。

「…………」

「…………」

 女が——壺を落とさなかった。落としかけて——両手で受け止めた。

「……あなたは——」

 声が水の音に似ていた。川の音ではない。もっと深い。泉が湧く音。静かで、冷たくて、途切れない音。

「……上から落ちてきた者だ」

「上——地上の方ですか」

「ああ。——ニニギの息子だ。火遠理ほおり

「火遠理さま……」

 女が——泉の水面を見た。もう一度。俺の顔が映っている水面を。

「あなたの顔が——泉に映っていました。知らない顔が。——でも」

「でも」

「花の匂いがします」

 また花の匂い。

「あなたは——豊玉姫とよたまひめか。ワニが言っていた」

「ワニが——ああ。あの子がお連れしたのですね」

 ワニが目を覚ました。——いや、起きていたのかもしれない。金色の目が俺たちを見ていた。

「花の匂いがする地上の方が来たと——あの子が伝えてくれました。だから今朝は早く来たのです。——見たくて」

 見たくて。花の匂いがする者を。

「……見せてもいいか。花びらを」

「——見せてください」

 木を降りた。枝を掴んで。泉のそばに立った。近かった。

 懐から花びらを出した。桃色の花びら。海の底で光っている母の花びら。

 豊玉姫が手を伸ばした。花びらに触れようとして——止まった。

「触れても——いいですか」

「いい」

 指が花びらに触れた。光る指。水と光でできたような指。

「…………」

「……きれいですね」

 三度目だった。ワニが二度言った。この女が三度目。

 しかし——三度目が一番静かだった。一番深かった。

 海の底で花を見た女の目が——光っていた。浅瀬の青が。

 何か言おうとした。名前を呼ぼうとした。——口が動かなかった。

 また。

 父もこうだったらしい。花の前で声が出なくなったと。——親子だな。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ