表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/17

第三章 沈む


 沈んでいく。

 竹の籠の中に丸まって。海の中を。光が減っていく。

 最初は青かった。空の色に似た青。水面に近い場所。魚が横切っていった。小さな魚が群れで。銀色の腹が光った。

 深くなった。青が暗くなった。魚が減った。代わりに——水母くらげがいた。透明な体が漂っていた。光を含んでいるように見えた。

 もっと深くなった。青が消えた。黒になった。

 暗い。

 何も見えない。竹の隙間から外を見ても——暗闇しかない。

 水圧が来た。

 体が押されていた。全方向から。地上の重力は下に引く力だった。海の重さは——全部から来る。上からも。横からも。下からも。体を潰そうとしている。

 父が言っていた。天は軽いと。地上は重いと。

 海は——もっと重い。

 天が一番軽い。地上がその次。海が一番重い。降りるたびに重くなる。天から地に降りた父は重さに苦しんだと言っていた。地から海に沈む俺は——父以上に重い場所にいる。

 耳が鳴っていた。圧で。胸が苦しかった。しかし——息ができた。老人が言った通り。籠の中には空気があった。竹の編み目が水を通さない。通さないはずがないのに——通していない。海の神に届く編み方だと老人は言った。

 冷たかった。水温が下がっていた。地上の水は冷たかった。海の底は——もっと冷たい。指の感覚がなくなっていく。

 どのくらい沈んだのか。分からなかった。時間の感覚がない。暗闇の中では時間が消える。父の話に出てきた根の堅洲国ねのかたすくにもそうだったらしい。暗い場所は——時間を奪う。

 懐の花びらが——温かかった。

 体が冷えていく中で、花びらだけが温度を持っていた。母の花びら。桃色の光がかすかに漏れていた。暗闇の中で。竹の隙間から、桃色の点が海に散っていた。

 ——光が見えた。

 下に。遠くに。

 青い光。暗闇の底に——青く光る場所があった。

 近づいていく。沈んでいく。籠が底に向かって。

 光が広がっていった。

 ——海の底は、暗くなかった。

 青かった。水面近くの青とは違う。深い青。暗い青。しかし光っていた。海底そのものが光を放っていた。岩が光っている。珊瑚が光っている。貝が光っている。全部が——青い光で満ちていた。

 籠が——止まった。

 底に着いた。砂の上に。白い砂。光る砂。

 息を吸った。——吸えた。

 蓋を開けた。おそるおそる。水が——入ってこなかった。籠の外にも空気があった。海の底なのに。水の底なのに。

 出た。

 足が砂を踏んだ。沈んだ。少しだけ。地上の土のように。

 立った。海の底に。

 見渡した。

 広かった。暗いと思っていた海の底は——広かった。青い光が地平線の代わりに広がっていた。珊瑚の森があった。岩の山があった。白い砂の平原があった。

 地上と——似ていた。山があって、森があって、平原がある。しかし全部が青い。全部が重い。空気が重い。体が重い。一歩踏み出すのに——地上の三歩分の力がいる。

「…………」

 声を出してみた。出た。聞こえた。自分の声が。海の底で。

 ——何かが動いた。

 珊瑚の森の向こうで。何かが——動いた。大きなものが。

 金色の光が二つ——こちらを見ていた。

 目だった。

 金色の目。暗い中で光っている。大きい。間隔が広い。つまり——顔が大きい。顔が大きいということは体が大きい。

 珊瑚の陰から——出てきた。

 ——ワニだった。

 鰐鮫。長い体。鱗に覆われた体。地上で見る魚とは違った。四本の脚がある。尾が長い。口が大きい。歯が並んでいる。

 大きかった。俺の体の——五倍はある。

 食われる。

 そう思った。弓を持ってこなかった。剣もない。素手で海の底にいる。目の前に巨大な鰐鮫がいる。

 ——逃げようとした。

 足が動かなかった。海の底は重い。走れない。一歩が遅い。

 ワニが——近づいてきた。

 口が開くと思った。歯が来ると思った。

 ——鼻を動かした。

 ワニが。鼻を。俺の方に向けて。嗅いでいた。

「…………」

 食うのではなく——嗅いでいる。

 ワニの金色の目が——懐を見ていた。花びらがある場所を。

「——お前から。」

 喋った。

 ワニが——喋った。低い声だった。水を通した声。振動に近い。

「お前から——花の匂いがする。」

「…………」

「花。——知っている。匂いだけ。見たことはない。しかし匂いは知っている。昔——嗅いだことがある」

「……お前は——喋るのか」

「喋る。——ここではな。海の神の領域では。地上では喋れない」

 ワニが——もっと近づいた。鼻が俺の胸元に触れた。冷たかった。鱗が硬かった。

「花の匂い。——懐にあるのか。見せろ」

「……見せたら食わないか」

「食わない。——花の匂いがする者は食わない」

 理由が分からなかったが——他に選択肢がなかった。

 懐から花びらを出した。一枚。桃色の花びら。海の底で——光っていた。暗い青の中に、桃色の光が浮かんでいた。

 ワニの金色の目が——見開かれた。

「…………」

「…………」

「——これが花か。」

「花びらだ。——花の一部」

「花びら。——きれいだ」

 きれい、と言った。巨大な鰐鮫が。歯が並んだ口で。

「地上の——ものか」

「ああ。——母の花びらだ」

「母。」

「花の神だった。——もういない」

「…………」

 ワニが——目を閉じた。開けた。

「お前は——何をしに来た。地上の者が海の底に」

「釣針を探しに来た。——兄の釣針を失くした」

「釣針。——それだけか」

「…………」

「それだけではないだろう。——その目は、何かを探している目だ。針よりも——大きなものを」

「…………」

「何を探している」

「……弟を」

 言ってしまった。塩椎しおつちの老人にも言えなかった言葉。言ったのは老人に言い当てられたからだ。今度は——自分から言った。

「弟。——地上の者か」

「三年前に——海に消えた。嵐で。見つからなかった」

 ワニの金色の目が——動いた。何かを考えているように。

「三年前。——嵐。」

「知っているのか」

「…………」

 ワニが——背を向けた。

「来い。——案内する」

「どこに」

綿津見わたつみさまの宮に。——この海の全てを治める方の宮に。お前が探しているものは——そこにあるかもしれない」

「針がか」

「針も。——それ以外のものも」

 それ以外のもの。

 ワニが泳ぎ始めた。ゆっくりと。俺が歩いて追いつける速さで。待ってくれている。

 歩いた。海の底を。重い足で。白い砂を踏んで。珊瑚の森を抜けて。

 ワニの背中を見ていた。鱗の背中。長い尾。金色の目が時々振り返る。

「……お前は——何者だ」

「ワニだ。——海の底にいる者だ」

「名前は」

「…………」

「名前はないのか」

「忘れた。——長くここにいると、忘れる。名前を呼ぶ者がいないと」

 名前を呼ぶ者がいないと忘れる。

 ——次男も。名前を呼ばれなくなって三年だ。兄は名前を口にしない。俺も——火須勢理ほすせりと呼ばなくなっていた。

「名前は大事だと——誰かが言っていたらしい」

「誰が」

「父の供だった女が。——名前を呼ばれると嬉しい、と」

 アメノウズメ。伊勢にいるはずの女。サルタビコの子供を育てているはずの女。名前を呼ぶことの大事さを知っている女。

 ワニが——止まった。

 前方に——光があった。

 青い光ではなかった。白い光。金色の光。

 宮だった。

 珊瑚と貝殻でできた宮殿。巨大だった。光を放っていた。海の底の暗闇の中に——輝いていた。

綿津見わたつみさまの宮だ。——お前を連れていく」

「……ありがとう」

「礼はいい。——しかし」

「何だ」

「その花びらを——もう一度見せてくれるか。宮に入る前に」

 出した。桃色の花びら。ワニの金色の目が——見ていた。じっと。長く。

「……きれいだ」

 二度目の「きれい」だった。

 きれいと言う鰐鮫の目が——何かを思い出そうとしているように見えた。

 何を思い出そうとしているのか。分からなかった。——まだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ