第三章 沈む
沈んでいく。
竹の籠の中に丸まって。海の中を。光が減っていく。
最初は青かった。空の色に似た青。水面に近い場所。魚が横切っていった。小さな魚が群れで。銀色の腹が光った。
深くなった。青が暗くなった。魚が減った。代わりに——水母がいた。透明な体が漂っていた。光を含んでいるように見えた。
もっと深くなった。青が消えた。黒になった。
暗い。
何も見えない。竹の隙間から外を見ても——暗闇しかない。
水圧が来た。
体が押されていた。全方向から。地上の重力は下に引く力だった。海の重さは——全部から来る。上からも。横からも。下からも。体を潰そうとしている。
父が言っていた。天は軽いと。地上は重いと。
海は——もっと重い。
天が一番軽い。地上がその次。海が一番重い。降りるたびに重くなる。天から地に降りた父は重さに苦しんだと言っていた。地から海に沈む俺は——父以上に重い場所にいる。
耳が鳴っていた。圧で。胸が苦しかった。しかし——息ができた。老人が言った通り。籠の中には空気があった。竹の編み目が水を通さない。通さないはずがないのに——通していない。海の神に届く編み方だと老人は言った。
冷たかった。水温が下がっていた。地上の水は冷たかった。海の底は——もっと冷たい。指の感覚がなくなっていく。
どのくらい沈んだのか。分からなかった。時間の感覚がない。暗闇の中では時間が消える。父の話に出てきた根の堅洲国もそうだったらしい。暗い場所は——時間を奪う。
懐の花びらが——温かかった。
体が冷えていく中で、花びらだけが温度を持っていた。母の花びら。桃色の光がかすかに漏れていた。暗闇の中で。竹の隙間から、桃色の点が海に散っていた。
——光が見えた。
下に。遠くに。
青い光。暗闇の底に——青く光る場所があった。
近づいていく。沈んでいく。籠が底に向かって。
光が広がっていった。
——海の底は、暗くなかった。
青かった。水面近くの青とは違う。深い青。暗い青。しかし光っていた。海底そのものが光を放っていた。岩が光っている。珊瑚が光っている。貝が光っている。全部が——青い光で満ちていた。
籠が——止まった。
底に着いた。砂の上に。白い砂。光る砂。
息を吸った。——吸えた。
蓋を開けた。おそるおそる。水が——入ってこなかった。籠の外にも空気があった。海の底なのに。水の底なのに。
出た。
足が砂を踏んだ。沈んだ。少しだけ。地上の土のように。
立った。海の底に。
見渡した。
広かった。暗いと思っていた海の底は——広かった。青い光が地平線の代わりに広がっていた。珊瑚の森があった。岩の山があった。白い砂の平原があった。
地上と——似ていた。山があって、森があって、平原がある。しかし全部が青い。全部が重い。空気が重い。体が重い。一歩踏み出すのに——地上の三歩分の力がいる。
「…………」
声を出してみた。出た。聞こえた。自分の声が。海の底で。
——何かが動いた。
珊瑚の森の向こうで。何かが——動いた。大きなものが。
金色の光が二つ——こちらを見ていた。
目だった。
金色の目。暗い中で光っている。大きい。間隔が広い。つまり——顔が大きい。顔が大きいということは体が大きい。
珊瑚の陰から——出てきた。
——ワニだった。
鰐鮫。長い体。鱗に覆われた体。地上で見る魚とは違った。四本の脚がある。尾が長い。口が大きい。歯が並んでいる。
大きかった。俺の体の——五倍はある。
食われる。
そう思った。弓を持ってこなかった。剣もない。素手で海の底にいる。目の前に巨大な鰐鮫がいる。
——逃げようとした。
足が動かなかった。海の底は重い。走れない。一歩が遅い。
ワニが——近づいてきた。
口が開くと思った。歯が来ると思った。
——鼻を動かした。
ワニが。鼻を。俺の方に向けて。嗅いでいた。
「…………」
食うのではなく——嗅いでいる。
ワニの金色の目が——懐を見ていた。花びらがある場所を。
「——お前から。」
喋った。
ワニが——喋った。低い声だった。水を通した声。振動に近い。
「お前から——花の匂いがする。」
「…………」
「花。——知っている。匂いだけ。見たことはない。しかし匂いは知っている。昔——嗅いだことがある」
「……お前は——喋るのか」
「喋る。——ここではな。海の神の領域では。地上では喋れない」
ワニが——もっと近づいた。鼻が俺の胸元に触れた。冷たかった。鱗が硬かった。
「花の匂い。——懐にあるのか。見せろ」
「……見せたら食わないか」
「食わない。——花の匂いがする者は食わない」
理由が分からなかったが——他に選択肢がなかった。
懐から花びらを出した。一枚。桃色の花びら。海の底で——光っていた。暗い青の中に、桃色の光が浮かんでいた。
ワニの金色の目が——見開かれた。
「…………」
「…………」
「——これが花か。」
「花びらだ。——花の一部」
「花びら。——きれいだ」
きれい、と言った。巨大な鰐鮫が。歯が並んだ口で。
「地上の——ものか」
「ああ。——母の花びらだ」
「母。」
「花の神だった。——もういない」
「…………」
ワニが——目を閉じた。開けた。
「お前は——何をしに来た。地上の者が海の底に」
「釣針を探しに来た。——兄の釣針を失くした」
「釣針。——それだけか」
「…………」
「それだけではないだろう。——その目は、何かを探している目だ。針よりも——大きなものを」
「…………」
「何を探している」
「……弟を」
言ってしまった。塩椎の老人にも言えなかった言葉。言ったのは老人に言い当てられたからだ。今度は——自分から言った。
「弟。——地上の者か」
「三年前に——海に消えた。嵐で。見つからなかった」
ワニの金色の目が——動いた。何かを考えているように。
「三年前。——嵐。」
「知っているのか」
「…………」
ワニが——背を向けた。
「来い。——案内する」
「どこに」
「綿津見さまの宮に。——この海の全てを治める方の宮に。お前が探しているものは——そこにあるかもしれない」
「針がか」
「針も。——それ以外のものも」
それ以外のもの。
ワニが泳ぎ始めた。ゆっくりと。俺が歩いて追いつける速さで。待ってくれている。
歩いた。海の底を。重い足で。白い砂を踏んで。珊瑚の森を抜けて。
ワニの背中を見ていた。鱗の背中。長い尾。金色の目が時々振り返る。
「……お前は——何者だ」
「ワニだ。——海の底にいる者だ」
「名前は」
「…………」
「名前はないのか」
「忘れた。——長くここにいると、忘れる。名前を呼ぶ者がいないと」
名前を呼ぶ者がいないと忘れる。
——次男も。名前を呼ばれなくなって三年だ。兄は名前を口にしない。俺も——火須勢理と呼ばなくなっていた。
「名前は大事だと——誰かが言っていたらしい」
「誰が」
「父の供だった女が。——名前を呼ばれると嬉しい、と」
アメノウズメ。伊勢にいるはずの女。サルタビコの子供を育てているはずの女。名前を呼ぶことの大事さを知っている女。
ワニが——止まった。
前方に——光があった。
青い光ではなかった。白い光。金色の光。
宮だった。
珊瑚と貝殻でできた宮殿。巨大だった。光を放っていた。海の底の暗闇の中に——輝いていた。
「綿津見さまの宮だ。——お前を連れていく」
「……ありがとう」
「礼はいい。——しかし」
「何だ」
「その花びらを——もう一度見せてくれるか。宮に入る前に」
出した。桃色の花びら。ワニの金色の目が——見ていた。じっと。長く。
「……きれいだ」
二度目の「きれい」だった。
きれいと言う鰐鮫の目が——何かを思い出そうとしているように見えた。
何を思い出そうとしているのか。分からなかった。——まだ。




