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第二章 浜の果て


 浜の端に座っていた。

 三日目だった。針を失くしてから三日。毎日浜に来て、海を見て、潜れないまま座っていた。

 泳げない。

 山の男だ。川で水を飲むことはある。しかし海は——違う。波がある。潮がある。塩辛い。目が痛い。足がつかない場所がすぐに来る。

 五回潜ったあの日が限界だった。浅い場所で息を止めて潜っただけだ。海の底は——見えなかった。光が届かない深さに針が沈んでいった。

 どうやって行くのか。

 分からない。

 父は「分からないまま行くしかない」と言った。しかし——天から地上には橋があった。天浮橋(あめのうきはし)。歩いて降りられた。サルタビコが道を塞いでいたが、道はあった。

 海には道がない。

 海面があるだけだ。水がある。その下に深さがある。深さの底に——何かがある。しかし道がない。歩けない。沈めない。息ができない。

「……どうすればいい」

 独り言だった。海に向かって。

 答えはなかった。波が来て、引いた。それだけだった。

 四日目。

 浜の端。もっと端。集落から離れた場所。岩場の向こう。人が来ない場所。

 座っていた。膝を抱えて。

 海を見ていた。

 見ていた。——見ることしかできなかった。

 鹿を見ているのと同じだ。弓を引いて、矢をつがえて——射てない。手を伸ばさない。見ているだけ。

 母が散るとき見られなかったのも——結局同じだ。見ていたかっただけで、何かをする力がなかった。見る男。見ているだけの男。

「——泣いとるのか」

 声がした。

 振り返った。

 老人が立っていた。

 いつからいたのか分からなかった。岩場の上に。白い髪。日に焼けた肌。背は低い。腰が曲がっている。しかし目が——鋭かった。海の色をしていた。黒ではなく、青でもなく——潮の色。

「泣いてない」

「泣いとるように見えるがな」

「泣いてない。——誰だ、あんた」

「この辺りの者だ。——塩を焼いて暮らしておる」

 塩を焼く老人。海辺にいてもおかしくはない。しかし——この岩場に人が来るのは珍しい。

「あんたこそ何をしとる。四日も浜の端に座って」

「四日——見ていたのか」

「この辺りの者だからな。——毎日見えておった。海を睨んで座っておる若い男が」

「睨んでない。——見ていただけだ」

「見ているだけでは海は動かんぞ」

「分かっている」

「分かっておるなら——何がしたい」

「……海の底に行きたい」

 老人が——足を止めた。

「海の底。——何をしに」

「釣針を探しに」

「釣針一本のためにか」

「……ああ。一本のためだ」

「大した針なのか」

「大した針だ。——弟が作った。もういない弟が。最後の一本だ」

「…………」

 老人が——岩場に座った。俺の隣に。近かった。潮の匂いがした。

「もういない弟——というのは」

「三年前に海で消えた。——嵐で。遺体も見つからなかった」

「…………」

「あの針だけが——弟がいた証拠だった。それを俺が失くした」

「……なるほどな」

 老人が海を見た。俺も海を見た。二人で海を見ていた。

「潜れんのか」

「潜れない。泳げない。山の男だ」

「山の男が海の底に行くか。——無茶だな」

「無茶だ」

「しかし行くのか」

「行く。——方法が分からないだけだ」

「方法か。——方法ならある」

「…………あるのか」

「儂が作ってやろう。——籠の舟を」

「籠の舟」

「竹で編んだ籠だ。人が一人入れる大きさの。——それに乗って海に出る」

「……籠で海に浮くのか」

「浮かない」

「浮かないなら——」

「沈む」

「…………」

「沈むんだ。——海の底まで。それが目的だろう」

 沈む舟。浮くためではなく沈むための舟。

「溺れないのか」

「籠の中は——守られる。儂が編み方を知っておる。海の神に届く編み方を。籠の中にいれば息ができる。目も開けられる。——底まで行ける」

「……何者だ、あんた」

「塩を焼く老人だ。——しかし長く海辺にいると、海のことが少し分かるようになる」

 名前を聞いた。

「塩椎(しおつち)。——塩の神、と呼ぶ者もおるがな。大袈裟だ。塩を焼いておるだけだ」

 塩椎(しおつち)。塩の神。

「なぜ——俺に手を貸す」

「四日も浜の端で海を睨んでおる男を見ていたら——放っておけんだろう」

「睨んでない」

「睨んでおった。——鬼のような顔で」

「…………」

「それに——お前から花の匂いがする」

「花」

「懐に何か持っておるだろう。——花びらか」

「……母の花びらだ」

「花の匂いがする者は——海に嫌われない。海には花がないからな。珍しがって迎えてくれる」

 珍しがって迎える。海が。花を。

「来い。——竹を切りに行く。籠を編むには半日あればいい」

 老人と山に入った。竹を切った。

 老人は腰が曲がっているのに——竹を切る手が速かった。鉈を振る腕が正確だった。節を避けて、繊維に沿って、必要な長さに揃えていく。

「あんたの手は——道具を作る手だ」

「長く作っておるからな」

「弟も——そうだった。手先が器用で。黙って道具を作る男だった」

「…………」

「弟に似ている。手が」

「弟を探しに行くのだろう。——針を探しに行くと言ったが、本当は弟を探しに行くのではないか」

「…………」

「分かっておったろう。針は口実だ。——海の底に弟がいるかもしれないと思っておるのだろう」

 ——分かっていた。

 分かっていて認めていなかった。針を探す。兄に返す。それが理由だと。しかし——本当は。

 三年前に海に消えた弟。遺体が見つからなかった弟。——死んだのか。あるいは——海の底に行ったのか。生きているのか。

「……分からない。弟が生きているかどうか」

「分からんな。——しかし行けば分かる」

 分からないから行く。聞いたことのある言葉だ。

「それは父の言葉だ。——俺が天から降りた父の」

「いい父だな」

 竹を浜に運んだ。老人が編み始めた。速かった。竹が老人の手の中で曲がって、交差して、形になっていった。

 籠だった。人が一人入れる大きさ。丸い。蓋がある。中に座れる。

「これに入って——海に出ればいい。潮が底に運んでくれる。底に着いたら蓋を開けて出ろ」

「出て——息はできるのか」

「底まで行ければ——海の神の領域だ。海の神の領域では地上の者でも息ができる。——たぶん」

「たぶん」

「行ったことがないから確かめてはおらん」

「…………」

「まあ——死にはせんだろう。花の匂いがする者は海に歓迎される。たぶん」

 たぶんが多い。しかし——他に方法がない。

 籠の舟が完成した。浜に置いた。波が足元を洗っている。

「……塩椎(しおつち)」

「何だ」

「ありがとう」

「礼はいい。——帰ってきたら塩を買え。儂が焼いた塩は美味いぞ」

「……帰ってきたら」

「帰ってくるつもりがないのか」

「帰ってくる。——針を持って。できれば弟も連れて」

「欲張りだな」

「父もそう言われていたらしい」

 老人が笑った。歯が少ない笑い。しかし——潮の色の目が光っていた。

 籠に入った。狭かった。膝を抱えてちょうどの大きさ。竹の隙間から海が見えた。

 老人が籠を押した。波に乗せた。

 浮いた。——少しだけ。

 そしてすぐに——沈み始めた。

 水が足元から入ってきた。冷たかった。

「沈んだら目を閉じるな。——見ていろ。海の中を。底まで。全部見ていろ」

 見ていろ。

 ——見ているのは得意だ。

 水が膝を越えた。腰を越えた。胸を越えた。

 息を吸った。最後の地上の空気を。

 水が頭を越えた。

 沈んでいく。暗くなっていく。光が減っていく。

 ——目を閉じなかった。

 見ていた。海の中を。青が暗くなっていく。青が黒になっていく。魚が過ぎていく。光が消えていく。

 深い。深い。どこまで深い。

 懐の花びらが——光った気がした。桃色の光。暗い海の中で。母の花びらが。

 ——見えた。

 底が。

 暗闇の中に——光があった。

 白い光ではなかった。金色でもなかった。

 青い光。海の底が——青く光っていた。

 何かがある。

 何かが——待っている。


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