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第一章 兄の釣針


 兄は——うるさかった。

 朝から。浜に出る前から。家の中で。

「おい火遠理ほおり! 俺の竿を触っただろう!」

「触ってない」

「嘘をつけ。置いた場所と向きが違う」

「風だろう」

「家の中に風は吹かない。——俺のものに触るな。何度言えば分かる」

 兄の名は火照ほでり。海幸彦と呼ばれている。海の男だ。毎朝浜に出て、日が暮れるまで魚を獲る。声が大きく、腕が太く、浜の漁師たちの上に立っている。

 上に立っている——というより、上に立ちたがる男だ。

 長男だった。父ニニギの三人の息子の長男。それが——兄の全てだった。長男であること。一番であること。

「飯は」

「まだだ。——今やっている」

「遅い。俺が浜に出る前に済ませろ」

「兄上が早すぎる」

「早いのではない。お前が遅い。母はいないんだから、お前がやるしかないだろう。さっさとしろ」

 母はいない。

 母は——俺が七つのとき死んだ。花のように散ったと父は言った。

 次男もいない。

 火須勢理ほすせり。三人兄弟の真ん中。静かな男だった。手先が器用で、道具を作り、籠を編み、黙々と働いていた。

 三年前——海に出て、帰ってこなかった。

 兄の釣具の修理を頼まれて、良い骨を探しに浜の向こうの岩場に行った。それきり。嵐が来て、波が高くなって、岩場が沈んだ。

 遺体は見つからなかった。

 兄は——次男の話をしない。名前を口にしない。いなくなったことを——なかったことにしている。

 釣針だけが残った。

 次男が兄のために作った釣針。骨を削って磨いて、返しの角度を何度も調整した針。兄はあの針で何百匹も釣っている。

 あの針だけが——次男がここにいた証拠だった。

「行ってくる」と兄が出ていった。竿と——あの釣針を持って。

 山に入った。

 弓を持って。一人で。

 山は静かだった。鳥の声。風が木の葉を揺らす音。獣が草を踏む音。——静かだ。兄がいないから。

 鹿の足跡を追った。半日追った。見つけた。

 ——見ていた。

 鹿が水を飲んでいた。川辺で。首を伸ばして。背中に木漏れ日が当たっていた。

 射てなかった。

 弓を引いて、矢をつがえて。——しかし射てなかった。目が合った。大きな黒い目。

 逃げた。鹿が。俺は弓を下ろした。

 いつもこうだ。見ている間は射てない。目が合うと射てない。見ているだけで満足してしまう。猟師として失格だが——見ていたいのだ。動いているものを。生きているものを。

 母がそうだった。

 母は花を見ていた。丘の上の木の下で。花びらが舞うのを。何時間でも。

 母が死んだのは俺が七つのときだ。散るところを——見られなかった。父が見せてくれなかった。小さすぎたから。

 ——見たかった。

 それだけが、ずっと残っている。

 夕方。山を降りた。獲物はなかった。

 浜の方から声が聞こえた。兄の声。いつもより大きい。

「火遠理!!」

 走っていった。浜に。兄が立っていた。漁師たちを従えて。腕を組んで。

「今日はどこにいた」

「山だ」

「何を獲った」

「……何も」

「何も。——毎日山に入って何も獲れないなら、浜に来い。俺の手伝いをしろ」

「手伝い」

「漁師が足りない。お前も舟に乗れ。——長男の俺が言っているんだ」

 長男の俺が。兄の口癖だ。長男であることが全ての理由になると思っている。

「……俺は山の男だ。海のことは知らない」

「知らないなら覚えろ。弟は兄に従うものだ」

「…………」

「次男がいれば別だった。あいつに道具を作らせて、お前に山をやらせて、俺が海をやる。——しかし次男はいない」

 次男の名前は言わなかった。「次男」とだけ。いつもそうだ。

「だからお前が来い。——明日から」

「断る」

「断る? ——長男の命令だ」

「命令する権利はない。父上が決めることだ」

「父上は——もう老いている。判断ができない。俺が決める」

「…………」

 父は老いていた。それは事実だった。花のように短い命。母が散ってから——父も少しずつ萎れていった。しかし——判断ができないわけではない。兄が勝手に跡を継ごうとしているだけだ。

「……分かった。一つだけ試させろ」

「何をだ」

「明日一日——道具を交換しよう。俺の弓をお前に貸す。お前の釣針を俺に貸せ。俺に海ができるか試す」

「交換。——俺の針を?」

「一日だけだ。海ができなかったら——兄上の言う通り浜に来る」

 兄の目が——光った。勝ったと思った目だった。海は甘くない。弓しか持ったことのない弟が一日で釣れるはずがない。明日の夕方には俺が降伏して浜に来ると——そう踏んだのだろう。

「いいだろう。——ただし針は絶対に失くすな。あれは——」

 言いかけて止まった。

「あれは次男が作ったものだ。——同じものは、もう作れない」

 次男の名前ではなく、「次男」。しかし——声が小さくなった。一瞬だけ。

 翌朝。交換した。

 兄に弓を渡した。兄が山に入っていった。声が大きかった。「猪がいるならかかってこい」と叫んでいた。山の獣が全部逃げるだろう。

 俺は釣針を受け取った。

 小さかった。骨でできた針。返しの角度が独特だった。次男の癖だ。少し内側に曲がっている。次男は何でも少し内側に曲げる。籠の編み目も、鍬の柄も。内側に。

 次男がここにいた証拠。最後の。

 浜に出た。岩場に立った。糸を垂らした。釣針が海に沈んでいった。見えなくなった。

 待った。

 山で獣を待つのと同じだ。——しかし山と違って見えない。糸の先が海の中にある。何が起きているか分からない。

 引いた。

 何かが引いた。強く。糸が張った。大きい。鯛か。兄が追っていた沖の大物か。

 引いた。力を入れた。糸が——

 ——切れた。

 手の中に糸の端だけが残った。

 針がない。

 次男の針が。最後の一本が。海の中に。

「…………」

 海を見た。波が来た。引いた。何事もなかったように。

 潜った。海に入った。冷たかった。目を開けた。塩が染みた。

 見えなかった。底が。深すぎた。

 五回潜った。見つからなかった。

 浜に上がった。手の中に——糸の端だけがあった。

 夕方。兄が帰ってきた。猪を担いでいた。

「火遠理! 見ろ、獲れたぞ! ——で、お前は何を釣った」

「…………」

「おい。——針は」

「…………」

「針を返せ」

「……失くした」

 兄の顔が白くなった。白くなってから赤くなった。

「——何だと」

「糸が切れた。針が沈んだ。五回潜った。見つからなかった」

「…………お前——」

「すまない」

「すまないで済むか!!」

 兄が——竿を地面に叩きつけた。折れた。

「あの針は——あいつが——」

 止まった。名前を言いかけて。止まった。

「あいつが作った最後の針だ。もう同じものは——誰にも作れない。あいつはもういないんだ。——分かっているのか」

 分かっていた。だから怖かった。受け取るとき手が震えていた。

「別の針を——百本でも千本でも作ってやる。しかしあの針だけは——」

「……百本も千本も要らない。あの一本が——」

「ああ。あの一本だ。——探してこい」

「探した。五回——」

「五回で足りるか! ——海の底まで行って探してこい。お前が落としたんだ。お前が見つけろ。それまで戻ってくるな」

 兄は怒っていた。

 しかし——怒りだけではなかった。

 あの針は——次男がここにいた最後の証拠だった。針がなくなれば——次男の痕跡が全部消える。兄は次男の名前を口にしない。しかし針だけは毎日持って海に出ていた。針を握ることで——次男に触れていたのだ。

 それを俺が失くした。

「……行く」

「…………」

「海の底まで行く。針を見つける」

「行けるわけがないだろう。お前は泳げもしない」

「泳げない。しかし行く」

「…………」

「兄上。——俺が落としたんだ。俺が探す」

 兄が——黙った。

 腕を組んだまま。背を向けた。

「……勝手にしろ。——死ぬなよ」

 死ぬなよ。背を向けたまま言った。振り返らなかった。

 父のところに行った。

 丘の上。あの木の下。父が座っていた。老いていた。髪が白い。しかし目は変わらなかった。

「父上。——海の底に行く」

「……そうか」

「兄上の釣針を失くした。次男が作った針だ。見つけなければ」

「……そうか」

 父は驚かなかった。

「行き方は分からない」

「俺も——天から降りる方法を知らなかった」

「…………」

「分からないまま降りた。お前も分からないまま行くしかない」

「……怖い」

「怖くていい」

 父が懐から何かを出した。花びらだった。薄い桃色。一枚。

「母上の——」

「お前の母が最後に残した花びらだ。——持っていけ」

「……いいのか」

「海の底には花がないだろう。——見せてやれ」

 受け取った。両手で。母の匂いがした。七つのときの記憶。花びらが舞う中で笑っていた母。

「父上」

「何だ」

「母が散るとき——見たかったか」

「…………」

「そばにいて。見ていたかったか」

「いた。——そばにいた。見ていた」

「……俺は見られなかった」

「お前は小さかった」

「小さくても見たかった」

 父が——俺を見ていた。

「……行ってこい。——戻ってこい」

「戻る。——針を持って」

 丘を降りた。花びらを懐に入れた。

 浜に向かって歩いた。夕日が海に沈みかけていた。

 海の底に何があるか分からない。次男の針があるかも分からない。次男が——いるかもしれない。海に消えた次男が。

 分からない。

 見たことがない。見ていただけだ。遠くから。

 ——見ているだけでは、分からない。


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