第十章 潮の珠
綿津見の前に座った。
「帰る」
「そうか。——花びらが薄くなったか」
「……見えるのか」
「見える。——海の底に長くいすぎた。お前の中の地上が溶けかけている。今帰らなければ——戻れなくなる」
「…………」
「お前の弟のように」
ワニのように。名前を忘れて。自分を忘れて。海の者になる。
「帰る前に——渡すものがある」
綿津見が手を開いた。手のひらに——珠が二つ。
一つは青かった。深い青。海の底の色。
一つは白かった。波の泡の色。
「潮満珠と潮干珠。——海を動かす力だ」
「海を動かす」
「青い珠を使えば——潮が満ちる。海が膨らむ。陸に向かって水が押し寄せる」
「…………」
「白い珠を使えば——潮が引く。海が退く。水が陸から離れる」
「……なぜ俺にこれを渡す」
「兄がいるだろう。——お前に針を探してこいと言った兄が。地上に帰れば——兄と向き合わなければならない」
「……ああ」
「兄は海の男だ。海で生きている。——潮を操れる者には逆らえない。兄を従わせる道具だ」
「従わせたいわけではない」
「従わせなければ——お前が従うことになる。長男の命令に。——お前はそれでいいのか」
「…………」
「使うかどうかはお前が決めろ。——持っておけ」
珠を受け取った。青と白。手の中で重かった。海の力が詰まっている。
「それと——一つ忠告がある」
「何だ」
「針を返すとき——兄にこう言え。『この針を持って釣りをすると、魚は離れていく。海が枯れる』と」
「……嘘をつけと?」
「嘘ではない。——あの針には呪いがかかっている。海の底に三年いた針だ。海の底の力が染みている。あの針で釣れば——魚が針を恐れて逃げる」
「…………」
「兄は困る。針が戻っても魚が獲れない。困った兄は——お前を頼るようになる。そのとき潮の珠がある。——力関係が変わる」
力関係。兄と弟の。
「……俺は——兄を支配したいわけではない」
「支配ではない。——対等になるだけだ。今まで兄に従わされていたのが、対等になる。それだけだ」
対等。——なれるのか。あの兄と。
「考えろ。——帰ってから」
宮を出た。
門の前。桂の木の下。泉のそばに——豊玉姫が立っていた。
光っていた。いつもと同じように。白銀の髪。真珠の飾り。透き通った衣。海の底で一人だけ光っている女。
「……帰るのですね」
「ああ」
「針は——見つかりましたか」
「溶けていた。——しかし、作り直してもらった」
「ワニが?」
「ああ」
「……あの子が。——作れたのですね」
「作れた。——歯で。不格好だが。返しの角度は同じだった」
豊玉姫が——微笑んだ。光が揺れた。
「作れてよかった。——あの子も嬉しかったでしょうね」
「ああ。——嬉しそうだった」
「…………」
沈黙。泉の水が湧く音だけが聞こえた。
「……豊玉姫」
「はい」
「忘れないと——言った。安い言葉だと分かっていて」
「安くないですよ。——忘れない人に出会ったのは初めてですから」
「…………」
「海の底の者は——忘れます。全部。海に溶けて。名前も。顔も。——忘れないと言ってくれる人は、いなかった」
「…………」
「忘れないでください。——本当に」
「忘れない」
「…………」
豊玉姫が——俺の手を取った。透明な手。光る手。冷たかった。海の底の温度。
「火遠理さま。——待ってください」
「待つ。——地上で」
「いいえ。——少しだけ待ってください。今。ここで。伝えていないことがあります」
「…………」
「伝えてから——送り出したい」
豊玉姫の手が——震えていた。
「……何だ」
「…………」
「何を伝えたい」
豊玉姫が——俺の手を自分の腹に当てた。
——温かかった。
海の底は冷たい。豊玉姫の手も冷たい。しかし——腹が温かかった。
「…………」
「子供が——います」
「…………」
「あなたの子です」
手の下に——命があった。海の底で。冷たい水の中で。温かい命が。
「…………いつから」
「少し前から。——伝えるか迷っていました。伝えたら——帰りにくくなると思って」
「…………」
「でも伝えなければ——帰ってから、いつまでも分からないままです。だから——今、伝えます」
「…………」
子供。豊玉姫との子供。海の底で宿った子供。
「……俺の子か」
聞いてしまった。父と同じ問いを。——しかし意味が違った。
父は疑った。母を。一夜で宿ることを。
俺は疑っていない。——ただ確かめたかった。この冷たい海の底で、温かい命が本当にいるのかを。
「あなたの子です。——海の底で、花の匂いがする方の子です」
「…………」
「だから——地上に行きます。私も」
「……地上に——来られるのか」
「行けます。——子供を産むために。地上で産みたいのです。花がある場所で。この子に——花を見せたい」
花を見せたい。海の底には花がない。この子に花を。
「待っている。——地上で。花が咲く丘で」
「…………」
「待っている。——今度は安い言葉じゃない」
豊玉姫が——泣いた。
泣いた。光る涙が。海の底で。水の中で涙は見えないはずだが——見えた。光る粒が頬を伝った。
「泣くな」
「泣いてません」
「嘘だ」
「……泣いてます。——嬉しくて」
ワニのところに行った。最後に。
珊瑚の森。白い砂。ワニが丸くなっていた。
「帰る」
「……そうか」
「針を——お前が作ってくれた。それを持って帰る」
「ああ」
「…………」
「…………」
「また来る——とは言えない。来られるか分からない」
「分からないなら言うな。——来られなくても構わない」
「…………」
「俺はここにいる。——海の底に。ずっと」
「…………」
「お前が来なくても。名前を思い出さなくても。——ここにいる。作りたいものがある限り。珊瑚を削って、貝殻を並べて。——ここにいる」
ここにいる。——この言葉を聞くと胸が詰まる。なぜだか分からないが。
「……一つだけ。最後に」
「何だ」
「お前が集めた珊瑚と貝殻。——あれで何か作れ。何でもいい。籠でも。針でも。——お前が作りたいものを」
「…………歯で作るのか」
「歯で作れた。針は。——他のものも作れる」
「…………」
「お前は——作る者だ。それだけは溶けなかった。海に来ても。ワニになっても。——それだけは。お前のものだ」
ワニが——尾を振った。小さく。
「……ありがとう。——ホオリ」
——止まった。
ワニが。俺が。
ホオリ、と言った。ワニが。俺の名を。——教えていない名を。
「……今——何と言った」
「…………」
「何と言った。俺の名を——どこで知った」
「……分からない。——口が勝手に。また。——なぜだ。なぜ俺はお前の名前を知っている」
「…………」
名前は思い出していない。自分が誰だったかも思い出していない。
しかし——「ホオリ」と呼んだ。
教えていない名前で。体が覚えていた。この男の名を。弟の名を。
「……行ってくる」
「……ああ。——行ってこい」
背を向けた。歩き出した。振り返らなかった。振り返ったら——帰れなくなる。
籠の舟が門の前に用意されていた。綿津見が手配した。
乗った。蓋を閉じた。
浮かび始めた。——今度は浮く。降りるときは沈んだ。帰るときは浮く。
竹の隙間から——海の底が遠ざかっていった。青い光が。珊瑚の森が。白い砂が。
宮の門前に——光が立っていた。豊玉姫が。手を振っていた。
その横に——金色の目が光っていた。ワニが。尾を振っていた。
遠ざかっていく。小さくなっていく。
懐の花びらが——光っていた。薄くなっていたが——まだ光っていた。
もう一つ。懐に針がある。ワニが作った針。返しが内側に曲がった針。
浮かんでいく。光に向かって。地上に向かって。
水面が——近づいてきた。
光が——強くなった。
——地上が。




