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第十一章 地上に戻る


 水面を突き破った。

 光が——目を灼いた。

 地上の光。太陽の光。海の底の青い光とは桁が違った。目を閉じた。開けられなかった。しばらく閉じていた。

 籠が波に揺れていた。浮いている。来たときと同じ浜の沖。

 目を開けた。少しずつ。

 ——空が広かった。

 青かった。海の底の青とは違う。上にある青。どこまでも続く青。雲が浮かんでいた。白い雲。動いている。風で。

 風。

 顔に風が当たった。乾いた風。塩の匂い。草の匂い。土の匂い。——全部一度に来た。

 泣きそうになった。匂いで。地上の匂いで。三年間嗅がなかった匂いが——一度に押し寄せた。

 籠から出た。海に落ちた。浅かった。足がついた。砂の底に。歩いて浜に上がった。

 足が——軽かった。

 海の底では一歩に三歩分の力がいった。地上では——軽い。体が浮くように歩ける。三年間海底の重さに耐えていた体が——地上の重力を軽いと感じている。

 父がこう言っていたのを思い出した。天は軽いと。地上は重いと。

 天→地上→海。重さが増す。逆に帰ると——軽くなる。海から地上に戻ると——軽い。

 浜に立った。

 変わっていなかった。同じ浜。同じ波。同じ砂。三年経っても——浜は変わらない。

 しかし——丘の木が変わっていた。

 あの木。母の木。花が——少なかった。三年前より。枝の花が減っている。木が——老いている。

 走った。丘に。木に向かって。

 丘の上に——人がいた。

 父だった。

 あの木の下に座っていた。——老いていた。

 三年前より。ずっと。髪が全部白くなっていた。顔に皺が深くなっていた。体が細くなっていた。

 花のように短い命。岩長比売いわながひめを退けた結果が——父を削っていた。

「……父上」

 父が——顔を上げた。目だけは変わっていなかった。何かを問い続けている目。

「…………」

「帰ってきた」

「……そうか」

 それだけだった。驚かなかった。怒らなかった。三年間息子が海の底にいて——「そうか」。

「心配しなかったのか。——三年だぞ」

「した。——毎日」

「毎日心配して『そうか』か」

「帰ってきたから『そうか』だ。——帰ってこなかったら『そうか』とは言えなかった」

「…………」

 父の隣に座った。並んで。あの木の下。母がいた場所。

「針は——見つかったか」

「溶けていた」

「溶けた。——では」

「作り直してもらった。——海の底で」

「誰に」

「…………」

「誰が作った」

「……ワニが。海の底にいる鰐鮫が。歯で削って。——返しが内側に曲がっている」

 父が——俺を見た。目が動いた。

「内側に。」

「ああ。——内側に」

「…………」

 父は聞かなかった。それ以上。しかし——分かっていた。内側に曲がる返し。その癖を持つ者は——一人しかいない。

「……生きていたか」

「……ワニになっていた。海の神に助けられて。体を変えられて。——名前を忘れていた」

「…………」

「しかし手の癖は忘れていなかった。内側に曲げる癖は。——骨を渡したら、歯で削って、同じ角度の返しを作った」

 父が——目を閉じた。長く。

「……そうか」

 また「そうか」だった。しかし——さっきの「そうか」とは重さが違った。

「名前は——思い出したのか」

「思い出していない。——しかし俺の名前を呼んだ。『ホオリ』と。教えていないのに」

「…………」

「帰れないと——海の神に言われた。地上に戻したら体が持たないと」

「……そうか」

 三度目の「そうか」は——一番重かった。

 父は何も言わなかった。息子が海の底でワニになって帰れないと聞いて。——何も言わなかった。言えなかったのだろう。

「兄上は——」

「浜にいる。——毎日いる」

「変わったか」

「変わらない。——うるさい」

「……そうか」

 親子で「そうか」ばかり言っている。

 浜に降りた。

 兄が——いた。

 竿を持っていた。しかし——釣っていなかった。竿を持って浜に座っていた。海を見ていた。

 三年前と——顔が変わっていた。痩せていた。声は大きかったが——体が小さくなっていた。

「……兄上」

 兄が——振り返った。

「…………」

「…………」

「帰ってきたのか」

「帰ってきた」

「……三年だぞ」

「ああ」

「三年——海の底にいたのか」

「いた」

「…………」

「針を——持ってきた」

 懐から出した。ワニが作った針。骨の針。歪んでいる。不格好。しかし——返しが内側に曲がっている。

 兄の手に乗せた。

 兄が——見ていた。針を。

 長い沈黙だった。

「……これは——あいつの針じゃない」

「…………」

「あいつの針はもっときれいだった。削りが丁寧で。形が整っていて。——これは歪んでいる。不格好だ」

「……ああ」

「しかし——」

 兄の指が——返しに触れた。内側の曲がりに。

「——この角度は——あいつだ」

「…………」

「この曲がり方は——あいつしかやらない。内側に。少しだけ。——あいつの癖だ」

「…………」

「お前——これをどこで手に入れた」

「海の底で。——ワニが作った」

「ワニ。——鰐鮫が針を作るわけがないだろう」

「作った。——歯で。骨を削って」

「…………」

「兄上。——次男は生きていた」

 兄の手が——震えた。針を持つ手が。

「何を——言っている」

「海の底にいた。ワニになっていた。嵐で沈んで——海の神に助けられて。体を変えられて。名前を忘れていた。——しかし手の癖は忘れていなかった」

「…………」

「帰れない。地上に戻したら体が持たないと言われた。——しかし生きている。海の底で。珊瑚を集めて、何かを作ろうとしている。毎日」

 兄が——針を握った。強く。

「…………」

「兄上」

「……黙れ」

「…………」

「黙れ。——今は」

 兄の目が——赤かった。声は出さなかった。しかし——目が赤かった。

「……あいつの名前を。一度も——呼ばなかった」

「…………」

「三年間。——お前にも言わなかった。あいつの名前を口にしたら——認めることになる。いなくなったことを」

「…………」

火須勢理ほすせり

 兄が——名前を呼んだ。三年ぶりに。

火須勢理ほすせり。——馬鹿が。ワニになるな。帰ってこい」

 帰れない。帰れないと——俺が言った。しかし兄は聞いていなかった。

「帰ってこい。——うるさくしてやるから。お前が黙って道具を作って、俺がうるさく魚を獲って、こいつが何も獲れずに山で座ってる。——それでいいだろう。帰ってこい」

 兄が——泣いていた。声を出さずに。針を握って。内側に曲がった返しを握って。

 俺は——何も言えなかった。

 帰れないと言えなかった。もう一度。泣いている兄にもう一度は言えなかった。

 夕方。

 丘の上。父と並んで座った。夕焼けを見ていた。

「兄上に——針を返した」

「そうか」

「次男のことも——話した」

「…………」

「泣いていた」

「……あいつが泣くのは——珍しいな」

「ああ。——初めて見た」

 夕焼けが赤かった。毎日違う色の夕焼け。三年ぶりの地上の夕焼け。

 足の裏が——温かかった。

 地上に戻ったら——温かさが戻っていた。大地の奥からの温度。海の底にはなかった温度。

 帰ってきた。

 地上に。——しかし、海の底に置いてきたものがある。

 豊玉姫が来ると言った。子供を産むために。花がある場所で。

 待っている。——ここで。この丘で。

 花が少なくなった木の下で。


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