第十二章 兄との決着
針が——使えなかった。
兄がワニの針を持って浜に出た。翌朝。目が赤いまま。泣いた翌日に——いつも通り浜に出る男。止まらない男。
糸をつけて海に投げた。待った。
——何も釣れなかった。
一日中。一匹も。
「おかしい。——この浜で鯛が釣れなかったことはない」
翌日も出た。また釣れなかった。三日目も。四日目も。
魚が逃げていた。針を恐れて。海の底に三年いた針。海の底の力が染みた針。魚が——針の気配を感じて散っていく。
綿津見が言った通りだった。
五日目。兄が家に怒鳴り込んできた。
「お前が持ってきた針のせいだ! この針を使い始めてから一匹も釣れない!」
「…………」
「前の針を返せ! 本物の方を!」
「溶けたと言っただろう。もうない」
「ならこの針を何とかしろ! お前が海の底から持ってきたんだ! 責任を取れ!」
「…………」
「浜の漁師たちも困っている。俺が釣れなくなれば——集落の食い扶持に関わる。分かっているのか」
分かっていた。兄が釣れなければ集落が困る。兄は海の男だ。漁師の頭だ。兄が海で獲れなくなれば——皆が飢える。
「俺のせいだと」
「お前のせいだ。——お前が針を落とした。お前が変な針を持ってきた。全部お前のせいだ」
「…………」
「お前は——俺に従え。前から言っているだろう。山で何も獲れない弟が、浜に来て俺の手伝いをしろ。それが筋だ。長男の俺が——」
「長男の俺が、か」
「何だ」
「三年前と——同じことを言っている」
「同じだ。——正しいからだ。長男が上に立つ。弟は従う。それが——」
「次男は従わなかった」
兄が——止まった。
「火須勢理は——兄上に従わなかった。黙っていたが従ってはいなかった。兄上の道具を直すふりをして——自分の好きなものを作っていた。籠を。鍬の柄を。——兄上のためではなく、自分のために」
「…………」
「従わせようとするから——人がいなくなるんだ」
「黙れ」
「次男は海に消えた。——俺を従わせようとしたら、俺もいなくなる。三年間いなかった。次も——いなくなるかもしれない」
「——脅しか」
「脅しじゃない。——事実だ」
兄が——俺を睨んでいた。拳を握っていた。声が大きくなっていた。
「お前が——俺に逆らうのか。弟が。三年も勝手にいなくなった弟が」
「逆らっているんじゃない。——対等になりたいだけだ」
「対等。——弟が兄と対等だと?」
「ああ」
「何の力がある。山で鹿も射てない男に」
懐に——潮の珠があった。青と白。海を操る力。
使いたくなかった。
力で兄を従わせるのは——兄が俺を従わせようとするのと同じだ。力と力。上と下。同じことの裏返しだ。
しかし——言葉では動かない。兄は言葉で動く男ではない。三年前もそうだった。
「……兄上。外に出ろ」
「何だ」
「浜に来い。——見せるものがある」
浜に出た。二人で。
波が穏やかだった。いつもの浜。
青い珠を握った。潮満珠。
「——すまない」
呟いた。兄には聞こえなかったろう。
珠を——掲げた。
海が——動いた。
波が高くなった。穏やかだった海面が——膨れ上がった。水が浜に向かって押し寄せてきた。
「なっ——何だこれは——」
兄の足元に水が来た。膝まで。腰まで。波が引かない。海が膨らんでいる。浜が沈んでいく。
「火遠理! 何をしている! 止めろ!」
胸まで水が来た。兄が——溺れかけた。海の男なのに。潮が操られたら——泳げない。水の方向が変わっている。
「止め——」
白い珠を握った。潮干珠。
海が——引いた。一気に。水が退いていった。浜が戻った。砂が見えた。
兄が——砂の上に倒れていた。海水を吐いていた。
「……何だ——今のは——」
「海の神にもらった。——潮を操る珠だ」
「…………」
「俺は海を操れる。兄上が海で生きている限り——俺の力に逆らえない」
「…………」
「従えとは言わない。——対等でいてくれ。それだけだ」
兄が——俺を見上げていた。砂の上から。海水に濡れた顔で。
「……お前——変わったな」
「変わった」
「海の底で——何があった」
「色々あった」
「…………」
「兄上。——頼む。対等に。上でも下でもなく」
兄が——立ち上がった。砂を払った。
「……分かった。——しかし」
「しかし」
「もう海を膨らませるな。——死ぬかと思った」
「……すまない」
「すまないで済むか。——まあいい。対等とやらでいてやる。その代わり——飯は炊け。お前の方がうまい」
「…………それは対等か」
「対等だ。俺が魚を獲る。お前が飯を炊く。——分担だ」
分担。——対等の形がそれか。
夕方。丘の上。父の隣に座った。
「兄上と——決着がついた」
「そうか。——どうやって」
「潮の珠を使った。——海を操って。力で」
「…………」
「後味が悪い」
「…………」
「父上は——こういうやり方はしなかったんだろう」
父が——俺を見た。
「俺は——剣を地面に突き刺して木を起こした。岩を受け止めた。守るために力を使った。——しかしお前のようにはしなかった」
「…………」
「しかし——俺がしなかっただけだ。正しいかどうかは分からない」
「……正しくない気がする。力で兄を溺れさせたのは」
「正しくないかもしれない。——しかしお前の兄は言葉では動かない。言葉で動かないなら——力を見せるしかなかった。お前はそう判断した」
「…………」
「お前は俺とは違う。——お前のやり方がある。後味が悪いなら——その後味を覚えておけ。次に力を使うとき、その後味が止めてくれる」
後味を覚えておけ。——父らしい言い方だった。
「もう使わない。——できれば」
「できればでいい。——完璧でなくていい」
夕焼けが——赤かった。
父の顔が夕焼けに照らされていた。老いた顔。しかし——穏やかだった。
「父上」
「何だ」
「豊玉姫が来る。——海の底の女が。子供を産みに」
「……そうか。——お前も父になるのか」
「ああ」
「大変だぞ」
「……大変か」
「大変だ。——三人育てた。全員違う。全員手がかかる。お前が一番手がかかった」
「……俺が」
「海を眺めて丘に座っている子供が一番心配だった。——何を見ているのか分からなくて」
「……分からないものを見ていた」
「知っている。——お前は俺に似ている」
似ている。分からないものを見に行くところが。
しかし俺は——見に行った先で、見てはいけないものを見てしまう男だ。それは——まだ父には言えなかった。




