第十三章 豊玉姫が来た
ある朝。浜に光が立っていた。
漁師が走ってきた。息を切らして。
「山幸彦さま——浜に——女が——光って——」
走った。
浜に着いた。
——いた。
波打ち際に立っていた。裸足で。波が足元を洗っていた。
白銀の髪が——風に揺れていた。海の底では水に漂っていた髪が——地上の風に揺れている。真珠の飾りが朝日を受けて光っていた。
腹が——大きかった。
透き通った衣の下に。命がいる。俺の子が。
「……来たのか」
「来ました。——約束しましたから」
「…………」
「地上の風は——軽いですね」
軽い。俺が海から帰ったとき感じたのと同じだ。海の重さに慣れた体には——地上が軽い。
「足が——沈まない。不思議です。海の底では一歩が重かったのに」
「地上は軽い。——慣れる」
「慣れたいです。——この子が生まれる前に」
豊玉姫が——空を見上げた。
「…………」
「どうした」
「空が——上にある」
「上にあるだろう」
「海の底では——上に水があるだけでした。空が見えなかった。——こんなに広いんですね」
広い。空は広い。——俺も最初はそう思った。父もそう思ったはずだ。天から降りたとき。
「あれが——夕焼けですか」
「朝だ。あれは朝焼けだ」
「朝焼け。——朝にも焼けるんですか」
「焼ける。——夕方にも焼ける。色が少し違う」
「…………見てみたい。夕焼けも」
「見られる。——今日の夕方に」
豊玉姫が——笑った。光った。朝の浜が明るくなった。海の底で光っていた女が、地上でも光っている。
しかし——光の質が違った。海の底では暗闇の中の光だった。地上では——朝日の中の光。朝日と混じって、もっと明るくなっていた。
丘に連れていった。あの木の下に。
花が咲いていた。母の木。少しだけ。枝に。
豊玉姫が——木を見上げた。
「これが——花」
「ああ」
「…………」
「…………」
「本物は——話で聞くより——」
声が止まった。
豊玉姫の目から——光る粒が落ちた。涙。地上で初めての涙。
「……泣いているのか」
「泣いてません。——目に何か入っただけです」
目に何か入った。——どこかで聞いた言い方だ。伊勢にいる女と同じ言い方だ。
「風があるから。——海にはなかった。風で目に何か入るんです」
「……ああ。風のせいだな」
「風のせいです」
花びらが——舞った。
枝から。散った花びらが。少ないが——舞った。
豊玉姫の方に。
花びらが——豊玉姫の周りに集まっていった。風の方向とは関係なく。吸い寄せられるように。白銀の髪に。真珠の飾りに。透き通った衣に。
「……花びらが——寄ってくる」
「……ああ。不思議だ。母の木だ。母がいなくなってから——花びらは誰にも寄らなくなっていたのに」
「お母さまの——花びらが」
「お前に寄っている。——なぜだろう」
「…………分かりません。でも——温かい」
温かい。花びらが温かいと言った。
母の花びらが——海の底から来た女に寄っていく。花のない世界から来た女に。花を見て泣いた女に。
「……母さんが——歓迎しているのかもしれない」
言ってから気づいた。「母さん」と呼んだ。いつもは「母上」だ。豊玉姫の前では——「母さん」が出た。
父に会わせた。
「父上。——豊玉姫だ。海の底の——」
「聞いている。——お前の嫁か」
「ああ」
父が——豊玉姫を見ていた。長く。
「……花びらが寄っているな」
「ああ。——母の花びらが」
「…………」
父が——立ち上がった。豊玉姫の前に。
「ニニギだ。——火遠理の父だ」
「豊玉姫と申します。——お世話になります」
「世話はしない。——息子がする。俺は見ているだけだ」
見ているだけ。——俺と同じことを言う。
「一つだけ聞いていいか」
「はい」
「海の底に——花はあったか」
「ありませんでした。——火遠理さまが花びらを見せてくださるまで、花を知りませんでした」
「……そうか。——花がない場所から来たか」
「はい」
「花がない場所にいた者に——花が寄っている。面白いな」
父が——笑った。老いた顔で。皺が深くなった。しかし——目が笑っていた。久しぶりに見た。父が目で笑うのは。
兄にも会わせた。
「兄上。豊玉姫だ」
兄が——じっと見ていた。
「……光っているな」
「ああ」
「海の底の女は——光るのか」
「この人だけだ」
「…………ふん。——弟の嫁にしてはもったいないな」
「余計なことを言うな」
「事実だ。——しかしまあ、いい」
兄が——豊玉姫に向かって頷いた。雑な挨拶。しかし——敵意はなかった。
「腹が大きいな。——いつ産まれる」
「もうすぐだと——思います」
「産屋はあるのか」
「……これから建てます」
「手伝ってやる。——浜の漁師に声をかけておく。木が要るだろう」
兄が——動いた。自分から。命令ではなく——手伝うと言った。
驚いた。兄が自分から手伝いを申し出るのは——記憶にない。
「……ありがとう。兄上」
「礼はいい。——対等だろう。対等なら手伝う。それだけだ」
対等。——覚えていた。あの言葉を。
夕方。丘の上。豊玉姫と並んで座った。あの木の下。
夕焼けが来た。
「…………」
豊玉姫が——黙っていた。空を見ていた。赤と橙と紫が混ざった空を。
「……これが——夕焼け」
「ああ」
「毎日——違うんですよね」
「違う。——明日はまた別の色になる」
「…………」
「……泣いているか」
「泣いてません。——風です」
「風が強いな。今日は」
「強いです。——とても」
風は穏やかだった。しかし——そういうことにした。
花びらが——豊玉姫の肩に積もっていた。桃色の花びらが。白銀の髪の上に。
母の花びらの上に——夕焼けの赤が落ちていた。桃色が赤に染まっていた。
きれいだった。
海の底で光っていた女が。地上で。花びらを纏って。夕焼けの中にいる。
見ていたかった。——ずっと。




