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第十六章 海に帰る


 ワニの姿が——変わっていった。

 産屋の中で。金色の目が閉じて、開いて。鱗が消えていった。体が縮んでいった。尾が消えた。鰭が消えた。

 白銀の髪が戻った。透き通った衣が戻った。

 豊玉姫の姿に。——しかし、光が弱かった。海の底で光っていた光が。地上でもっと明るくなった光が。——消えかけていた。

 腕の中に——子供がいた。泣いていた。小さな声で。

「…………」

「…………」

 豊玉姫が——立ち上がった。子供を抱いて。

 入口に来た。俺の前に。

 目が——合った。淡い青の目。金色ではなかった。——しかし、もう同じには見えなかった。金色を知ってしまったから。あの目の奥に金色があると知ってしまったから。

「……すまない」

「…………」

「見てしまった。——約束を破った」

「なぜ——見たのですか」

「声が変わった。苦しそうだった。——死ぬのではないかと思った。母が産屋で死んだように」

「…………」

「見ないで——お前がいなくなるのが怖かった。見ているしかできない男だから。見ないで失うくらいなら——見て確かめたかった」

「…………」

「言い訳だ。——約束を破った言い訳だ」

「……ええ。言い訳です」

 静かだった。怒っていなかった。泣いてもいなかった。

「でも——分かります」

「…………」

「あなたはお母さまを見られなかった。散る姿を。ずっと——それを悔いていた。だから見た。見ないでいられなかった」

「…………」

「分かります。——分かるから、余計に辛いのです」

 分かるから辛い。——怒りより辛い言葉だった。

「もう——ここにはいられません」

「…………」

「掟です。——本来の姿を見られた以上、地上にはいられない」

「掟を——破れないのか」

「破れません。——もう体が変わり始めています。この姿を保てなくなっています」

 豊玉姫の手が——透けていた。うっすらと。指の先が透明になっていた。海に戻ろうとしている。体が。

「この子を——あなたに預けます」

 子供を差し出した。小さな体。泣いている。

「名前は——鵜葺草葺不合命うがやふきあえず

「鵜葺草——」

「鵜の羽を葺き終わる前に生まれてしまったから。——間に合わなかったのです。産屋も。あなたの約束も」

 間に合わなかった。産屋の屋根が葺き終わる前に陣痛が来た。約束が持つ前に声が変わった。——全部、間に合わなかった。

 子供を受け取った。温かかった。小さくて。軽くて。

「妹を——送ります」

「妹」

玉依姫たまよりひめ。——私の妹です。この子を育てる手伝いを」

「お前の代わりに——妹を」

「代わりではありません。——私にはもうできないことを、妹に頼むのです」

「…………」

火遠理ほおりさま」

「…………」

「花の話を——ありがとうございました」

「…………」

「山吹。椿。藤。梅。桜。菫。撫子。芙蓉。——覚えています。全部」

「…………」

「海の底に帰っても——忘れません。花の名前は忘れません。あなたが教えてくれたから」

 忘れないと言った。俺が海を去るとき言った安い言葉を——豊玉姫が返してきた。安い言葉ではなかった。

「待ってくれ。——まだ」

「待てません。——体がもう」

 豊玉姫の足が——砂に沈んでいた。溶けるように。海に還ろうとしている。

「行かないでくれ」

「行かなければ——この姿が崩れます。あなたの前で。——それは嫌です」

「…………」

「最後にきれいな姿で——いさせてください」

 きれいな姿で。——見られたくない姿を見られたから。せめて最後は。

「……一つだけ。——聞いていいか」

「何ですか」

「お前は——俺を恨んでいるか」

「恨んでいません」

「…………」

「恨めません。——あなたが見た理由を知っているから。お母さまのことを知っているから。見ないでいられなかった人を——恨めません」

「…………」

「ただ——」

「ただ」

「悲しい」

 それだけだった。恨みでも怒りでもなく。——悲しい。

 豊玉姫が——浜に向かって歩き始めた。裸足で。砂を踏んで。来たときと同じ浜を。

 俺は——子供を抱いて立っていた。追えなかった。追ったところで止められない。掟は破れない。

 波打ち際で——豊玉姫が振り返った。最後に。

 光っていた。弱い光。消えかけの光。しかし——光っていた。

「この子に——花を見せてあげてください。地上の花を。たくさん」

「…………」

「花のない場所で育った私のようにならないように。——花を知っている子に育ててください」

 波が来た。豊玉姫の足を洗った。

 もう一つ波が来た。膝まで。

 光が——海に溶けていった。白銀の髪が水に広がった。真珠が波間に散った。

 透き通った衣が——水になった。水が海に還った。

 いなくなった。

 浜に——波だけが残った。寄せて、引いて。何事もなかったように。

 海の底と地上の間に——何かが閉じた音がした。音ではなかった。感覚だった。道が閉じた。豊玉姫が閉じた。——もう、ここからは行けない。

 腕の中で——子供が泣いていた。

 俺も——泣いていた。声を出さずに。

 浜に立っていた。子供を抱いて。海を見て。

 見ていた。——海を。豊玉姫が消えた海を。

 見る男だ。——最後まで。見ることしかできなかった。


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