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第十七章 海幸山幸


 玉依姫たまよりひめが来たのは——豊玉姫が去って三日後だった。

 浜に。朝。

 豊玉姫に似ていた。白銀の髪。淡い青の目。——しかし光り方が違った。豊玉姫は周囲を照らす光だった。玉依姫は——内側にしまってある光。静かだった。

「姉に頼まれました。——この子を育てる手伝いを」

「…………」

「姉は——元気です。海の底で」

「……元気か」

「元気です。——花の名前を毎日唱えています。山吹、椿、藤——と」

「…………」

「忘れないようにと」

 腕の中の子供を——玉依姫に見せた。鵜葺草葺不合命うがやふきあえず。三日で少し大きくなっていた。目が開き始めていた。

「この子は——姉の目をしていますね」

「ああ」

「淡い青。——きれいな目です」

 きれいな目だった。豊玉姫の目。海の色の目。

 年が経った。

 子供が育った。玉依姫が育てた。俺も育てた。兄が魚を持ってきた。父が丘の上から見ていた。

 父は——やがて死んだ。

 花のように。静かに。あの木の下で。

 最後の朝。丘に登ると——父が木にもたれて目を閉じていた。花びらが一枚、肩に乗っていた。

「……父上」

 返事がなかった。

 手を握った。冷たかった。——しかし足の裏は温かかった。大地の奥から。最後まで。

 父は——地に根を張ったまま死んだ。天から降りて、地上で花を見つけて、花を失って、根を張って。——最後まで、ここにいた。

 子供が大きくなった。走り回った。海を見た。山を見た。——空を見た。

 やがて——玉依姫との間に子が生まれた。

 俺の孫だ。——しかし複雑な血だ。俺の子と、豊玉姫の妹の子。天の血と。地の血と。海の血が。全部混じった孫。

 その子が——やがて、この国を治めることになる。と——足の裏の温かさが教えてくれた気がした。

 気がしただけだ。声は聞こえない。父が死んでから——温かさだけが残っている。声はもう届かない。

 ある夕方。

 浜に立っていた。海を見ていた。

 見ていた。——いつも見ている。海を。豊玉姫が消えた海を。

 海の底には何も光っていなかった。道が閉じている。豊玉姫が閉じた。あの日から——海の底は見えない。

 兄が隣に来た。

「また見ているのか」

「ああ」

「見ていても——来ないぞ」

「分かっている」

「分かっているなら——飯を炊け。腹が減った」

「……ああ」

「…………」

「…………」

「……あのな」

「何だ」

「お前が——海から持ってきた針」

「ああ」

「あの針で——今日、鯛が釣れた」

「…………」

「呪いが解けたのか。それとも——魚が慣れたのか。分からないが。——釣れた」

「……そうか」

「返しが——内側に曲がっているだろう。あの角度が——鯛の口に合うらしい。あいつの癖が——役に立った」

 あいつ。——兄が次男を「あいつ」と呼んだ。名前ではないが——「次男」でもない。「あいつ」。少しだけ近くなった。

「……兄上。釣れた鯛を——海に一匹返してくれないか」

「返す? せっかく釣れたのに」

「一匹だけ。——海の底に届くように。あいつが作った針で釣った魚を——あいつに返してやりたい」

「…………」

「届くか分からないが」

「届かないだろう。——道は閉じている」

「ああ」

「しかし——返すか。一匹」

「頼む」

 兄が——鯛を一匹、海に投げた。波の向こうに。遠くに。

 沈んでいった。見えなくなった。届くかどうか分からない。

「……馬鹿な弟だ。二人とも」

「ああ」

 丘に登った。あの木の下に。

 花が咲いていた。母の木。毎年少しずつ減っている。しかし——まだ咲いている。根があるから。

 座った。

 懐に花びらがあった。母の花びら。海の底に持っていって、持って帰ってきた花びら。豊玉姫が「きれい」と言った花びら。

 まだ光っていた。薄いが。——まだ。

 もう一つ。針があった。ワニが作った針。返しが内側に曲がった針。兄が今日鯛を釣った針の、もう一本。ワニが削りすぎて失敗した方をもらっていた。歪んでいる。使えない。——しかし捨てなかった。

 足の裏が温かかった。父が死んでも残っている温かさ。大地の奥の温かさ。

 見てしまった男が——ここにいる。

 見なければよかったと思う日がある。見なければ豊玉姫はここにいた。子供のそばに。俺のそばに。

 しかし見た。

 母を見られなかった男が——見ることを選んだ。約束を破って。信頼を壊して。

 それでも——ここにいる。

 後悔がある。後悔ごと根を張っている。後悔が消えたら根も抜ける。消えないから——ここにいる。

 それも根だ。

 きれいな根ではない。まっすぐな根でもない。歪んでいる。ワニが作った針のように。しかし——内側に曲がっている。自分の方に。

 風が吹いた。花びらが一枚——懐から飛んだ。母の花びらではなかった。木から散った花びらだった。

 海の方角に飛んでいった。

 届くだろうか。海の底まで。道は閉じている。花びらが通れる隙間があるとは思えない。

 ——届かなくても。

 飛ばし続ける。

〈第十七章・了〉

海幸山幸——完


荒魂・葦原記・天孫降臨・海幸山幸

日本神話シリーズ

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