第十五章 見た
豊玉姫が産屋に入った。
「行ってきます」
「…………ああ」
「待っていてくださいね。——外で」
「待っている」
入口から入っていった。光が中に消えた。
一人になった。産屋の前に。
待った。
最初は静かだった。
中から物音がするだけだった。布が擦れる音。水の音。豊玉姫が準備をしている音。
待った。
空が明るかった。昼だった。日が高い。風が吹いていた。花びらが飛んできた。母の木から。産屋の屋根に花びらが積もっていった。鵜の羽の上に桃色の花びら。
待った。
声がした。
豊玉姫の声。——低い声。呻き声。苦しそうだった。
「…………」
立ち上がりかけた。——座り直した。約束した。外で待つと。
声が続いた。苦しそうな声が。長く。
待った。手を握った。花びらを握った。
声が——変わった。
人の声ではなくなった。
低い音。振動に近い音。水底から響くような音。豊玉姫の声だったものが——別のものになっていた。
何が起きている。中で何が起きている。
「…………」
入口が開いている。——三歩先に。
見るなと言われた。見たらいなくなると言われた。約束した。
しかし——声が変わった。人の声ではなくなった。豊玉姫が苦しんでいる。何かが起きている。
——父は見られなかった。
母が産屋に火をつけたとき。壁が斬れなくて。入口がなくて。中で何が起きているか分からないまま——外で一日以上待った。
父はそれを「何もできなかった」と言った。
俺は——。
入口がある。入れる。見られる。
声が——さらに変わった。もう声ではなかった。唸り。地面を揺らすほどの振動。産屋の壁が震えていた。
——死ぬのではないか。
母は死んだ。産屋の火で命を縮めて。あの火で花びらを燃やして。
豊玉姫も——死ぬのではないか。
見なかったら——手遅れになるのではないか。
母を見られなかった。散る姿を。七つのとき。見せてもらえなかった。
——見ていたかった。
ずっと。ずっと思っていた。見ていたかったと。見ているだけの男なのに——一番見たいときに見られなかった。
それが——ずっと残っていた。
入口が——三歩先にある。
一歩。
——やめろ。
二歩。
——約束しただろう。
三歩。
——見た。
見た。
入口から中を。
暗かった。豊玉姫の光がなかった。あの白銀の光が消えていた。
代わりに——金色の目があった。
大きかった。暗闇の中で金色の目だけが光っていた。二つ。間隔が広い。
——ワニだった。
産屋の中に。巨大な鰐鮫がいた。
豊玉姫はいなかった。白銀の髪も。真珠の飾りも。透き通った衣も。——なかった。
ワニだけがいた。体をくねらせていた。苦しそうに。——産んでいた。
ワニの体の下に——小さなものがあった。生まれたばかりの。泣いている。声が小さい。しかし確かに泣いている。
子供だった。
俺の子供だった。
ワニの金色の目が——俺を見た。
——豊玉姫の目だった。
海の底の洞窟で、地上の光の中で一瞬見えた金色。あのとき「気のせいですよ」と言った金色。
気のせいではなかった。本来の姿の目だった。ずっと隠していた目だった。
「…………」
「…………」
目が合っていた。ワニの金色の目と。俺の目と。
産屋の中で。入口を挟んで。
ワニの目が——変わった。金色が震えた。
恐怖だった。
見られた恐怖。隠していたものを見られた恐怖。——豊玉姫が一番恐れていたことが起きた。
「——見た、のですね」
ワニの口から——豊玉姫の声がした。震えていた。
「見ないでと——言ったのに」




