〆 新しい出会いに
それから一週間後、姉の紫乃がひとりで茅蜩館にやってきた。しかも、宿泊客としてだ。滞在日数は、とりあえず一週間を予定していると本人は言っている。荷物の多さからして、家出にしかみえない。
「もう、耐えられなかったの」
ティーラウンジでスコーンにたっぷりとジャムを塗り付けながら、ふてくされたように紫乃が打ち明ける。
「お姉さまがお義兄さまに耐えられなくなったの?」
ありえないと橘乃は思った。結婚を断っても責められることがない口実がいくつもありながら、それらを全部無視して弘晃に嫁いだのが紫乃なのだ。強情な姉のことだから、後悔することがあったとしても絶対に弱音など吐かないはずだ。しかしながら、たとえ冗談でも姉がこんなことを言うとも思えない。いったい何があったのだろうと心配しながら、「喧嘩でもしたの?」と橘乃がたずねると、「まさか」と笑いながら紫乃が首を振った。
「喧嘩なんてしていないわよ。それ以前に、あの人とでは喧嘩にならないわよ」
「そうよねえ」
弘晃ならば、紫乃からどれだけ怒りをぶつけられようと、笑顔でいなしてしまいそうである。だが、口喧嘩ができぬからと暴力に及べば、即座に壊れてしまいそうでもある。
「だったら、お姉さまは、いったい何に腹を立てているの?」
「腹を立ててもいないわよ。わたくしはね、大切にされすぎて困り果てているの」
そう言うなり、紫乃がスコーンにかぶりつく。いつになく食欲旺盛な姉をまじまじと十秒間ほど眺めた後、橘乃は破顔した。なんという贅沢な悩みだろう!
「笑い事ではないのよ」
ケタケタと笑っている橘乃を、紫乃が睨む。
「ここ3日間ほど、見張り付きで部屋に閉じこめられるわ、弘晃さんには会わせてもらえないわで、大変だったんだから」
「ええっ?」
「そうなのよ」
橘乃の反応に気をよくした紫乃が勢いづく。
「妊娠中は薬が飲まないほうがいいっていうでしょう?、だから、わたくしに風邪をうつさないようにと、弘晃さんやみんなが心配してくれるのはありがたいのよ。でも、だからといって、私を弘晃さんから隔離するなんて、あんまりだわ。それもーー」
「ちょ、ちょっと待って!」
橘乃は慌てて姉の話をさえぎった。
「赤ちゃんができたの?」
「そうらしいわ」
紫乃が照れくさそうな笑みを浮かべた。あたらめて話を聞いてみると、弘晃は風邪をひいて寝付いているという。先日要たちと一緒に春栄に会うために外出したのがいけなかったようだ。となれば、冬樹との関係をこじらせた橘乃にも弘晃に風邪をひかせた責任があるわけだが、紫乃は「そんなことでいちいち責任を感じられたら、弘晃さんのほうが気に病んでしまう」と橘乃の謝罪を笑って受け流してくれた。
「弘晃さんが寝付くのはよくあることだもの」
だから、紫乃もいつものように弘晃の傍で過ごしていた。それなのに、彼女が「妊娠しているかもしれない」と告げた途端に、弘晃は人を使うことまでして、彼女を部屋から強制退去させたという。
「あの人にしか取り付けないような風邪に、わたくしがやられるわけがないのに! ひどいわ!」
「そうかもしれないけど」
「ええ、弘晃さんがわたくしを傍においておきたくない気持ちも理由も、ちゃんと理解しているのよ。だから、しばらくの間は、おとなしく別の部屋で過ごしていたのよ」
しかしながら、紫乃がいるだけで、家中の人間が異常に神経質になって家中を消毒しかねない。だから、彼女は茅蜩館に避難することにしたそうだ。あちらの両親にも弘晃にも断りを入れた上で家を出てきたし、茅蜩館にも中村家の車で送ってもらったという。「弘晃さんがね。 一刻も早く風邪を直して迎えにいくから待っていてくれって」と、紫乃は嬉しそうだ。
「そういうことだから、弘晃さんが来てくれるまで、ここでおとなしくしているわ。橘乃も、わたくしを見張ろうなんて思わなくてもいいわよ」
「本当に?」
「どうしてみんな、わたくしが静かにしていられないと決めてかかるのかしら」
紫乃は不服そうだ。だが、普段から疑われるようなことばかりしている姉にこそ問題があると橘乃は思う。
「そんなに疑わしそうな顔をしなくても、今回ばかりは軽はずみな行動はしないわよ。だって、この子が元気に生まれてくれないと、弘晃さんが自分のせいにするに決まっているもの」
「あ、そうか……」
体が極端に弱い弘晃は、子供を持つどころか結婚することさえ、ずっと諦めていた。それを理由に、紫乃との結婚も自主的に断念しようとしたほどだ。
「だからね。元気な子を産んで、彼を安心させてあげたいの。いいえ。無事に生まれてくれさえしたら、それだけでいいわ。この子が生まれてきたら、小さかった頃の弘晃さんの分まで、たくさん可愛がってあげるの。弘晃さんは、お祖父さまのせいで誰にも甘えさせてもらえなかったから」
「そうだったわね」
虚弱に生まれた弘晃を《できそこない》呼ばわりしていた先の中村本家の当主は、怪しげな祈祷師による『この子の命に中村の命運がかかっている』というお告げを真に受けて孫の保護に全力を尽くした。その結果、弘晃は彼の身を危険にさらしかねない病原菌や環境の変化と無縁の環境に隔離されただけでなく、病原菌を運んでくる可能性がある使用人や両親からも遠ざけられることになった。先代当主本人も、当然のように弘晃に近づかなかった。死ぬことさえなければ、できそこないの孫のことなど先代にはどうでもよかったらしい。
「お義父さまが取り返すまで、弘晃さんは誰からも可愛がってもらえなかった。長い間、ひとりぼっちで寂しい思いをしてきた。それに、よく考えたら、わたくしも望まれて生まれた子供ではないような気がするのよね」
「たしかに」
昔を思い出して、橘乃が苦笑いを姉に返す。父の極端な子煩悩は、本妻が亡くなった六条家に6人の愛人が娘を連れて押し掛けてからのことでしかない。本人も認めていることだが、昔の父というのは次から次へと交際相手を変えるろくでなしだった。そんな男が、子供の誕生を喜んだとは思えない。
「うちのお母さまも、お父さまがあんな調子だから産むことを、一度はためらったのではないかしら」
「うちのお母さまも悩んだでしょうねえ」
源一郎の他の妻たちも、やはり悩んだことだろう。それよりも、孤児院の前に置き去りにされた要こそ、『自分は望まれていない人間かもしれない』と思い悩んだことがあったのではないだろうか。要と同じように茅蜩館に引き取られた隆文や浩平は、どうだろう? そういえば、八重に引き取られた貴子や輝美たちも父親に捨てられたようなものだ。
「今さらだけど、うちの関係者って、全ての人から祝福されて生まれたっていう人が少ないわね」
例外は森沢ぐらいだろうかと思ったが、彼の両親もまた駆け落ち同然で結婚している。彼の祖母が許さなかったためだ。
「お父さまも、きっとそうよね」
彼は誰からも求められない存在だった。それでも、桐生喬久と知り合ったことで、変わることができた。要も、久志やボタンと出会ったことで、茅蜩館との縁を繋いだ。
「赤ちゃんが生まれてきたら、盛大にお祝いしてあげたいわね」
『いらない子だったかもしれない』なんて思いをするのは、橘乃たちの代まででたくさんだ。紫乃の子供や、そして、これから生まれてくる子供たちの誕生を、心から喜んであげたい。
『あなたは独りぼっちじゃないんだよ』
『苦しいことや辛いことがあっても、みんながいるよ』
『楽しいことや幸せなことも、みんなで分かち合おうね』
そんな気持ちと『幸せになってほしい』という願いを込めて。ひとつひとつの出会いが良き縁を結ぶようにと祈りを込めて。
「大きなケーキを焼いて、お誕生日の歌を歌ってね」
これから生まれてくる命を、みんなでお祝いしよう。
(おしまい)
長い間読んでくださって、ありがとうございました。




