誕生日には歌を 13
今回は2話(13話と〆(エピローグ))を同時に投稿しています。
その日の橘乃は、冬樹の放火未遂のせいで姉妹が勢ぞろいしていることを理由にして、実家に長居することになった。茅蜩館に帰ってきたのは、昼もだいぶ過ぎた頃。姉の夫たちと共に武里に抗議に行ったらしい要から話を聞きたくて事務室に直行したものの、そこで働いているはずの夫の姿はなかった。居合わせたスタッフによると、一時間ほど前にいったん戻ってきたが、すぐにまた慌ただしく出かけていったとのこと。
「和臣さんのところじゃないかねえ」
居間に行くと、八重が教えてくれた。戻ってきたら必ず連絡してくれるようにと、和臣が要に伝言していたようだ。
「お兄さんのことだから、春栄さんとの面談が首尾よく運んだかどうかを知りたかったんじゃないかね」
「そうかもしれませんね。自分だけ誘ってもらえなくて、拗ねていたみたいですから」
さもなくば、兄は工事のことで要と話したいのかもしれない。
「ところで、橘乃ちゃんさえよければ、これから一緒に行ってもらいたいところがあるんだけどね」
「どこですか?」
「菱屋さんのところ。『詫びなどいらない』と言ってくださっているけど、そういうわけにもいかないだろう」
しかしながら、会長は忙しい人だ。『わざわざ来る必要はない』と言われているのも同然なのに、こちらのために時間を取っていただくのも気が引ける。しかしながら、予告なしに行けば、会長に会えないことも確実だろう。
「かといって、こっちが詫びるのに、あちらさまからこちらにきてくださるのを待ってるっていうのもねえ。だから、とりあえず、お詫びの手紙を菓子折りと一緒に秘書さんにでもお渡ししておけば、こちらの体裁も整うかと思ってね。私ひとりで行こうかと思ってたけど……」
「そこは、オーナーと次期オーナーが揃って伺ったほうが、より恰好がつくでしょうね」
いたずらに応じるような笑みで橘乃が応じれば、「そういうことさね」と、八重も顔をしわだらけにして笑う。
「面倒くさいし、くだらないことかもしれないけどね」
「そうかもしれませんね」
だけども、くだらないことで人間関係が円滑になるなら、それに越したことはないではないか。例えば冬樹などは、こういう挨拶よりももっともっと些細で当たり前な手間や気遣いをことごとく『くだらない』の一言で片づけてきてしまったのではないか。そのせいで今のような苦境に陥ることになったのではないかとも、橘乃は思うのだ。「面倒くさいついでに」と、八重は橘乃に着物まで着せてくれることになった。というよりも、始めから着せるつもりでいたらしく、渡された長襦袢には、白地に赤や朱色で可愛らしい模様が刺繍された半襟が、すでに縫いつけられていた。そして、「橘乃ちゃんには色味が濃すぎるかもしれないから、半襟の柄は、それぐらい可愛らしほうがいいと思うんだよ」と言い訳のようなことを言いながら八重が着せかけてくれたのは、常盤緑と呼ばれる濃い緑色の色無地だった。八重の着物かと思ったが、彼女と橘乃では背の高さが違いすぎるので、同じ物を橘乃が着たら、おそらく全体的に丈が足りないはずだ。ならば貴子か輝美の物だろうかと、自分で裾を整えながら想像していた橘乃に、「この着物は、まだ誰も袖を通していないんだよ」と、八重が言った。
「これは、ボタンにあげるつもりで誂えたから」
「ボタンさんに?」
「そう。この色なら、あの子の真っ直ぐな綺麗な髪に映えるだろうと思ったんだよ。それに、ええと、なんだっけ…… ああ、もう、年寄りは名前が出てこなくっていけないねえ」
八重がじれったそうな顔をしながら両のこめかみをげんこつで軽く叩く。
「うちのチャペルの牧師さんがおっしゃってたんだよ。元娼婦だったのを悔い改めて、キリストさまのお弟子さんになったとかいう女の人ってのがいたんだろう?」
「ああ、はい。そんな方がいましたね。ええと……なんとかのマリア……さん、でしたっけ?」
橘乃の記憶も八重に負けず劣らず曖昧である。ともあれ、そのマリアが描かれる時のイメージカラーというのが、緑色なのだそうだ。
「ボタンもさ、その人と同じように過去の自分を捨てて、真っ当な暮らしをすることを選んだんだ。足を洗ってからは、悪さなんかひとつもせずに、この茅蜩館で真面目に働いてきた。『だから、もう昔の自分のことで引け目を感じることなんてない。私たちも、誰がが昔のあんたのことを詰ろうと嗤おうと、なんとも思いやしないから。だから、安心して久志のお嫁においで』ってね。久志がボタンを連れて戻ってきたら、これを着せて、そう言ってやろうと思ってたんだよ」
それなのにボタンの馬鹿は戻ってこないし久志の馬鹿は死んじまうし……と、きりきりと帯を締めあげながら八重が悪態をつく。
「まったく、あの親不孝どもが……」
「す、すみません」
「橘乃ちゃんが謝ることないだろう」
「そうかもしれませんけど、帯が締められすぎてて、息が……」
「ああ、すまないね。つい、力が入っちまった」
八重が慌てて、帯を緩めてくれた。
「だから、お下がりで悪いけど、ボタンの代わりに着てやっておくれ。でも、こんなものもらったからって、あの馬鹿娘の分まで幸せになってやろうなんて、気負うこたないよ。幸せだろうが不幸だろうが、そんな重たいものを人の分まで背負うことはないんだからさ。橘乃ちゃんは橘乃ちゃんで、自分が幸せになることだけ考えてればいい。ほい、できた」
八重がお太鼓に結んだ帯をポンと叩くと、橘乃の正面に回って、「うん。よく似合っている」と満足げに微笑んだ。
****
行ったところで会えないだろうと思いこんでいた菱屋の会長だったが、八重は会長が年中息抜きに出向いている茅蜩館の居間の主である。一階の受付嬢も彼女に呼ばれて階下に降りてきた秘書も、そのことをよく知っていて。八重に遠慮する暇も与えぬまま、ふたりを会長の部屋まで通してくれた。
「ちょうど八重さんの居間に逃げ込みたいなあ思っていたところだったんだ」
書類を脇によけながら会長がホッとしたような笑顔でふたりを迎える。
「お忙しいんでしょうに。よろしかったんですか?」
「よろしいもなにも、こんな年寄りをいつまでも働かせようとすることからして間違っているんだ。中村の爺どもなんて、とっくの昔に悠々自適な生活を満喫しているというのに」
浩平についての詫びだけ入れて早々に引き上げようとする八重を、「ここまできたんだから、せめて茶を一杯飲む間だけでも私につき合ってもらうよ」と、会長が引き留めた。
「それに、訊きたいこともあったんだ」
「なんでしょう?」
「源一郎…… いや、六条さんのことなんだけどね」
会長が八重から橘乃に視線を移した。
「うちは、彼を怒らすようなことをしたのだろうか?」
「父が菱屋さんに怒っているというのですか?」
橘乃は困惑しながら八重と顔を見合わせた。午前中にいた六条家では、そんな話題は出なかった。 八重も「そんな話は聞いたことがない」と言いたげに首を傾げている。
「そんなことはないと思いますけど」
「そうか。では、君を含めたご家族の誰かに何か困ったことが起きてやしないかね? 危険な目に遭わされたとか?」
「今朝、六条のお家に火をかけられそうになりましたけど……」
「放火?! 大丈夫だったのかい? 犯人は? まさか……」
「未遂だったそうですよ。犯人は、会長がとっさに思い浮かべただろう御方で間違いございませんでしょう」
顔色を変えた会長に八重が言う。
「竹里冬樹か。ああ、なるほど。 それでか……」
「あの、父が何をしたのでしょうか?」
やっと合点がいったというように膝を叩いている会長の顔を、橘乃がおずおずとのぞき込む。
「いや、具体的に源一郎が何をおっ始めたのかまでは、私にもわからん。だが、例のホワイトヘブンに突然妙な横やりが入ってので、気になったのだよ」
「横やり?」
「ところで、要くんは、今日は?」
「それが、今朝方、その放火のことで、橘乃の姉の旦那さんたちと一緒に冬樹さんの一番上のお兄さんとの話し合いに出かけましてね」
「今は、兄のところに行ってます」
橘乃が、八重の言葉を継いだ。
「では、要くんのほうが正確に事態を把握しとるだろう。彼が戻ってから、話を聞くといいよ。ついでに、ホワイトヘブンの再建計画について関係者で話し合う場を早急に整えてほしいと私が言っていたと、君から要くんに伝えてくれるかい? どうやら、源一郎が引っ掻き回してくれたおかげで、ややこしいことになりそうだからな。どうせなら、楽しい会にしてくれるとありがたいな」
*****
「……って、会長さんが言っていたのだけど、そんなにややこしいことになっているの? 大丈夫?」
夜遅くになって出先から直接家に帰ってきた要に橘乃が菱屋の会長とのやり取りを教えてやると、ひどく疲れた顔で彼女が作った茶漬けをかき込んでいた要は、いったん箸を止め「それほどでもないよ」と首を横に振った。
「確かに、今現在のホワイトヘブンは、うちと武里さんと菱屋さんでなんとかしようとしていたところに、中村と喜多嶋までもが協力を申し出てきてくれたかと思ったら、六条さんが乱入してきたために、少しばかりややこしい状況になっているけどね」
「……。 それのどこが『それほどでもない』の?」
もめ事が多かった茅蜩館と武里に、ずっと武里と仲が悪かった中村。その中村と常にトップ争いをしているような印象がある菱屋。そこに乱入してきた《壊し屋》とか《破壊神》とかいう異名があるとかないとか言われている六条が一同に会するのだ。橘乃などは想像しただけで頭がクラクラしてくるというのに、要ときたら「そういうことなら、鳥海社長と仁樹谷社長にも声をかけたほうがいいかな」と、更に関係者を増やすようなことを言い出す始末である。
「鳥海社長って、お酒の会社の?」
冬樹の圧力によって茅蜩館へ酒類の供給が止まった時に、自ら八重に謝りに来てくれた人だ。
「そう。今朝、時夫さんが、鳥海酒造があのあたりに持っている工場について以前社長が言っていたことを思い出してくれてね」
姉の輝美と違ってどこまでも控えめな茅蜩館のバーテンダーが『役に立たないかもしれないけど』と言いながら要にもたらしてくれた情報によれば、鳥海社長は、自分の工場の上方にあるゴルフ場が自社の酒造りに不可欠な湧水の劣化を招くのではないかと危惧していたそうだ。「できることなら、ゴルフ場ごと買い取りたい」とまで言っていたらしい。買い取って、元の森に戻したいのだそうだ。
「それが、ホワイトヘブンのゴルフ場?」
「地図で確認する限りは、そうみたいだ。酔った勢いで言っていただけかもしれないから、どこまで本気かわからないけど。とにかく、場所の確認もかねて、僕からさりげなくお話を持っていってみようかと思って」
でないと後で社長から恨まれるかもしれないからと要が笑う。また、浩平によるとホワイトヘブンの周辺にも水の心配している小さな酒蔵がいくつもあるそうだ。彼らに社長を引き合わせてみるのもいいかもしれないと、要が言う。
「でも、ゴルフ場をなくしてしまうの?」
もともと向かない場所に作られているという話は、橘乃も浩平やマリアから聞かされている。難易度が高いといえば聞こえがいいが、狭い地形に無理やりコースをねじ込んだようなところもあるそうだ。当然、利用客の評判は悪い。しかも、浩平が見ても崩れそうな気がしてならない場所がいくつかあるという。浩平は、ホワイトヘブンの後に作られたもう一つの武里リゾートが管理しているゴルフ場と共同利用という形にして、そちらを再整備したうえで、ホワイトヘブンのほうを開発前の景色に戻したほうがいいと思っていて、その方向で秋彦を説得するつもりでいるそうだ。
「鳥海さんが多少なりとも話に乗ってくださるなら、資金面で助かるということもあるけど、山の管理に手を貸していただけるかもしれない。一度樹を抜いてしまった山を森に戻すのは簡単なことではないらしいのだけど、中村さんが協力してくださることになったから話もしやすいし」
「弘晃義兄さまの会社?」
なぜこの時点で彼の会社が出てくるのだろうと不思議がる橘乃に、「あまり知られてないけど、中村さんの会社は国内有数の山林管理者でもあるんだよ」と要が教えてくれた。
「木を売っているの?」
「売ってもいるし育ててもいる。造林用の苗も作っていたはずだよ。儲けよりも公益性が優先されるようなことも引き受けているみたいだね」
浩平が見つけてしまった山崩れ危険地域については、中村が専門の人を派遣してくれることになったという。
「その調査結果が出てくるまではなんとも言えないそうだけど、どうせ裸の山肌に植林し直さななくちゃならないなら、土地にあった樹を使って元のホワイトヘブンから眺めた時に景色が良くなるような樹を計画的に配置してみてもいいんじゃないかという話も出てきた。ランドスケープをデザインするのは菱屋さんが得意としているから、ここは、菱屋さんのお知恵をいただくべきところかもかもしれないね」
「仁樹谷製薬は?」
「それは、ホワイトヘブンがある馬白集落の人から話があったんだ」
ホワイトヘブンがある馬白集落というのは、昔は山から採ってきた薬草を里に売って生計の足しにしていたのだそうだ。そのことを地元の特徴としてホワイトヘブンの再建に活かすことはできないだろうかと、浩平が相談を受けていたのだという。
「ホワイトヘブンはスポーツリゾートとしては不便であることは今さらどうしようもないから、『やすらぎ』とか『癒し』というイメージを前面に押し出したほうがいいんじゃないかっていう彼らの意見には僕も賛成だ。それに、規模は小さいけど、隠し湯みたいな湯治場もあったそうだよ」
そういうことを含めて、要が森沢に話をしたところ、『薬のことなら薬屋にきいたほうがいいだろう』からと、取引のある仁樹谷製薬の社長さんに話してくれることになったという。「仁樹谷さんなら生薬由来の薬もたくさん作っているから興味を示してくれるだろうって」
森沢は、山で採れるものならば当地での栽培も可能なはずだと言ったそうだ。美容によさそうな成分を持つ植物があるならば森沢の叔父が興味を持つかもしれないからと、喜多嶋化粧品にも相談してくれるという。
「まったりとした癒しの保養地としてホワイトヘブンを再デビューさせるつもりなら、『薬草の里』っていうイメージで売ったらどうだろうとも言ってたよ。芍薬とか桔梗とか桃とか杏とか、花が咲く薬草の畑や木立も景色にとりいれたらどうかって。もっとも、僕と同じで森沢さんも現地を見たことがないから思いつきで言ってくれているだけだけどね。とはいえ、観光地として売り出しているわけでもないのに喜多嶋の長野の本拠地にある香料用の花畑を目当てにやってくる人も毎年かなりの数いるらしいから」
「そこ、知っているわ。明子姉さまたちが長野の結婚祝いのパーティーで使ったバラの畑のことよね」
夢のように美しい花畑と妖精のように清楚な花嫁を思い出して橘乃が微笑む。ちなみに、あの花畑から作られた香料は、原則として喜多嶋化粧品の中でも最高級とされる製品に使われている。
「ホワイトヘブンで薬効成分入りのハンドクリームとかのど飴とかを作ったら売れるかしら?」
橘乃は提案してみた。少なくとも、全国展開しているピンク色の餡子入りの大福よりもオリジナリティがあると思う。
「いいかもしれないね。森沢さんが、やる気があるなら協力するって言ってくれているよ。小規模でもいいので現地で生産できそうな工場があるなら、提携してもいって」
抜け目のない森沢は、商品化された時には『喜多嶋化粧品との共同開発』と宣伝してくれとも言っているそうだ。
「すごいわね」
「森沢さんの商魂が?」
「違うわ。茅蜩館のネットワークがよ」
橘乃は感心した。
「菱屋の会長さんがね。自分たちが繋いだお客さまとの縁と元手に業種や規模や地域の垣根を越えて人や企業との縁を取り持ってくれるのが、茅蜩館の強みであり魅力だっておっしゃてたの」
「そんなふうに言ってもらえるほどたいそうなことはしてないよ」
「八重さんも、要さんと同じことを言ってたわ」
要の口調が八重が会長に謙遜してみせた時の言い方そのものだったことがおかしくて、橘乃が笑う。本人たちが思っている以上に周りの評価が高いということなのだろう。
「それはともかく、さっきから訊きたくてウズウズしていることがあるのだけど」
橘乃は、きちんと座りなおすと、要に訊ねた。
「お父さまは、いったい何をしたの?」
「ああ、それね~~」
どこから話そうかと思案するように、要の眼がわずかに泳いだ。
「話すと長くなりそうなんだけど、そもそも、弘晃さんと森沢さんが春栄さんのところに行ったのは、武里にとって大きな利益に結びつくような取引を持ちかけることで、春栄さんに冬樹さんを抑えてもらうことが目的だったんだ。具体的に言えば、旧中村財閥関連企業と喜多嶋グループの全ての社員の福利厚生施設としてセレスティアルホテル及びリゾートを利用させてもらおうという……」
「なるほど、莫大な人数の社員を抱えている中村と喜多嶋の福利厚生施設として全国の武里のホテルを利用してもらえるようになったら、武里としては万々歳。かなり割引してもおつりがくるほどの儲けが見込めるでしょうね。中村や喜多嶋にしても、自前で保養施設を維持するよりも、任せられるところは武里に任せて、社員の利用料の一部を補てんするほうが負担も少なくてすむから得になる。それに、喜多嶋の社員さんたちは流行に敏感な人たちが多いわ。武里リゾートを利用してもらえれば、武里にとって宣伝にもなるわね。宣伝といえば、中村との提携は武里にとって中村との和解を印象づける絶好の機会でもある。弟が散々迷惑かけたというのに、こんな美味しい話を持ってこられたら、春栄さんとしてはむげにするわけにはいかないわ。せっかくの美味しい話を台無しにしかねない冬樹さんを一生座敷牢に閉じ込めてでも、受けようとするでしょう」
「……。橘乃さんも、やっぱり六条さんの娘さんだけのことはあるね。さすが……」
「お世辞も、細かいお話も要らないわ。今の私が聞きたいのは、そういうことじゃないの」
橘乃は、要の話をとっとと切り上げさせると、できるだけ怖い表情を保ちながら、「お父さまが、なにをしたのか教えて」と、要に強く要求した。
「やっぱり、言わなくちゃダメかな?」
「言って」
「……。わかった。あのね」
要が、橘乃の視線を避けるようにうなだれかけていた顔を上げた。
「全部買うって言ったらしいんだ」
「お父さまが言ったの? 誰に言ったの? 何を買うの?」
「放火のことで激怒した六条さんが、春栄さん――つまり武里グループの最高責任者である秋彦さんのお兄さんに、この先冬樹さんが所属することになる全ての会社もしくは団体を片端から買い取るつもりだと言ったそうだよ」
橘乃が理解しやすいように言葉を区切りながらゆっくりと要が言った。
「片端からって……」
「つまり、冬樹さんが武里リゾートに復帰したら、武里リゾートを買う。武里鉄道に再入社したら、武里鉄道を買う」
他の系列会社に冬樹を入れても、武里とは関係のない会社に預けても、同じ。すべからく自分が買い取るつもりであると、六条源一郎は宣言したそうだ。
「そして、自分が本気であることを示すために、放火現場から武里グループの本部に直行した六条さんは、ホワイトヘブンをキャッシュで買っていったと――」
「はあ?! リゾート施設なんて、その場で現金で買えるものなの?!」
「買えちゃったみたいだね」
驚きのあまり思わず立ち上がった橘乃に、要が乾いた笑みを向けた。完全に買い取るためにはそれなりの手続きが必要なはずだが、源一郎の勢いに怯えた春栄が、その場でホワイトヘブンの売却を了承してしまったそうだ。
「とはいえ、僕は、六条さんの気持ちもわからないでもないよ」
要が、横暴な父の味方に回った。
「身寄りがいなかった六条さんにとって、家族は特に特別だろうから。それを傷つけようとする人間が許せないんだろうね」
「そうかもしれないけど。でも、いくら冬樹さんが憎いからといって何もかも買い取ろうとするなんて、無茶苦茶だわ。第一、そんなに買ってどうするの?」
「買い取ったものは六条さんのものだからね。そこに属している冬樹さんを思う存分こき使うつもりだそうです」
茶碗を置いた要が、『ごちそうさま』という言葉と共に神妙に手を合わせた。
「でも、いくらなんでも、それは……」
「可哀そうかもしれないね。でも、『冬樹は、そういう《可哀そう》なことを誰かに平気でしてきたんだろう?』」
要が父親の口ぶりを真似る。『ならば、自分が同じことをしても彼だけは文句が言えないはずだし言わせない』と、源一郎は言っているそうだ。
「『腐った性根のまま冬樹を生かしておいたら、そのうち、もっと酷くて取り返しのつかない事件を起こすに決まってらあな。あのままにするってぇなら、今のうちに俺があいつに火ぃつけて燃してやる』とも言ってたよ」
「そんな……」
「だから、《今》のまま、《あのまま》の冬樹さんのままだったら、ってことだよ」
冬樹に同情しかけた橘乃に、要が優しい眼差しを向けた。「六条さんは『あいつの腐った性根は、一から鍛え直さないと治らない』とも言っていたよ」
「え?」
「冬樹さんは、生まれ変わらなくちゃいけない。そうでなければ、何も解決しない。これまでどおり無自覚なまま、誰彼かまわず傷つけてしまう。ならば、誰かが彼を鍛え直さなくちゃいけない。誰もやらないなら――」
「お父さまがやるの?」
茫然と目を見開く橘乃に、要がうなずく。
「とはいえ、普通に誘ったところで冬樹さんが素直に六条さんのいうことをきくとは思えないからね」
「それで、《全部買う》って言い出したの?」
「そうすれば、冬樹さんも六条さんの言うことを聞くしかないだろうし、周りに説明する手間も省けるって、六条さんが思っちゃったみたいだね」
要が苦笑いを浮かべる。
「でも、それ、本当にお父さまの本心なの?」
要が父の無茶な行動を善意的に解釈してくれただけではなかろうか?
「確認したよ。聞き出すまでが大変だったけどね。なにせ、和臣さんに呼ばれて行ってみたら、武里を買い占めることを反対された源一郎さんが逆上して暴れている最中だったから」
「お兄さまが呼んだの?!」
「藁にもすがりたい気持ちだったみたいだね」
和臣からの伝言を受け取った要は、さっそく彼に電話したそうだ。すると、既に手に負えなくなっている源一郎を持て余していた和臣から、『助けてくれ』という悲鳴に近い応援要請を受けたのだという。
「お兄さまが悲鳴???」
長年和臣の妹をやっている橘乃にも想像がつかない状況である。とはいえ、要が呼ばれた場所が一種の修羅場であっただろうことは、橘乃にも容易に想像がついた。
「それで、とにかく出かけていって、まずは六条さんに落ち着いてもらって」
「要さんが落ち着かせたの? お兄さまや佐々木さんにも手に負えなかったのに?」
信じられない思いで橘乃が訊き返す。口で言ったところで、言うことをきく父ではない。『落ち着け』と命じれば、かえって暴れ出すような人だ。要が到着した時、まさにそんな状況だったのではなかろうか。
「そういうことになるのかなあ。でも、『六条さんがしたいことは、こういうことですよね』ってこちらから言ったら、すぐに落ち着いてくれたよ」
『もっとも、六条さんの意図がどうであろうと冬樹さんが心を入れ替えるとは思えないけどね』と、要が寂しそうに笑う。
「でも、なんで?」
橘乃が首を傾げる。要には、どうして源一郎の意図がわかったのだろうか。
「春栄さんから話を聞いた時、なんとなくだけど、そういうことなんじゃないかって思ったんだ。うちのお祖母さまなら、そうするだろうから」
「八重さんなら?」
「うん。引き取り手のない子供や、やり直したいけれども行くところがない人を、あの人は、いつも受け入れてきたから」
「冬樹さんが引取り手のない子供だっていうの?」
「甘やかしてくれる人なら、まだいるかもしれないけど。今の冬樹さんに必要な人は、ぶっ叩いてでも冬樹さんに自分の罪を認めさせて、これまでのやり方じゃない生き方を基礎から教えてあげられる人だからね」
「それを冬樹さんにしてあげられる人は、お父さましかいないってこと?」
「冬樹さんのために、そこまでしてあげる気になってくれる人が誰もいなそうだから、六条さんが名乗りを上げることにしたと言ったほうが、この場合は正しいかな。あるいは、そこまでしてくれる人が、彼にはずっといなかったというべきかもしれない。ひどいことを言うようだけど、剛毅さんと冬樹さんのお母さんは、悪いことを悪いことだと冬樹さんに教えるよりも彼の言いなりになって甘やかすほうがずっと楽だったんだと思う。他の人もそうだ。彼と対立するよりも、言いなりになるか距離を置く方が、ずっと楽だった。冬樹さんにどうしてやるのが一番いいかを彼の立場から考えてくれる人が、これまで誰もいなかったんだ」
『考え方によっては、冬樹さんは、とても可哀そうな人だよ』と、要が寂しそうに微笑む。
「そうかもしれないけど」
橘乃は納得いかなかった。だからといって、どうして源一郎が冬樹の世話を焼かねばならないのだろう。しかも、他人から恨まれかねない強権を使うことまでしてだ。右腕の佐々木が反対しているのなら、源一郎が買おうとしているものは、六条グループにとって負担にしかならないものであるに違いない。
「それでもやろうとしたのは、六条さんが同じことを昔してもらったことだからかもしれないね」
「昔? 桐生のおじいさまにってこと?」
和臣の祖父のことだ。昔々、手の付けられない街の不良少年だった六条源一郎を、彼が気まぐれに拾った。
「『なんで、あんな性悪なガキをわざわざ拾ったりするんだ?』って、当時の桐生さんは、皆からそう言われたそうだよ」
「お祖父は、なんて答えたの?」
「さあ?」
要が肩をすくめる。「はぐらかしたのだか、答えなかったのか。 理由は誰も知らないようだよ」
八重も桐生から何も聞いていないそうだ。 源一郎本人は知っているのかもしれないが、彼がそのことについて語るのを聞いた者もいないらしい。
「もともと理由なんてないのかもしれないね。六条さんにせよ、どうして冬樹さんを助けようと思ったのだか自分でもわかっていないみたいだった。無理にこじつけるなら、昔の自分に今の冬樹さんを重ねてしまったとか、桐生さんから受けた恩を誰かに返そうと思ったってことになるんだろうね」
「お父様さまの昔って、冬樹さんに似てるの?」
「『あんなもんじゃなかった』らしいよ」
本人がそう言っていたと、要が苦笑いを浮かべた。
「でも、僕は、冬樹さんがああなった責任を負うべきは、まずは冬樹さんのお母さんであり武里の身内の人だと思うんだ。この上、六条さんが出しゃばって彼らに楽させてやることはない。だから、とりあえず、僕のほうから春栄さん兄弟に六条さんの考えを話すことにした。その上で、彼らに冬樹さんの今後について真剣に考えてもらうことにして、六条さんに彼らを見守ってもらう。そして、どうにも我慢できなくなったら手を出しても構わないってことで、話をつけてきたよ」
「話をつけた……って、つまり、要さんが提案したってことよね?」
「そういうことになるね」
要が邪気の感じられない笑みを浮かべた。
「しばらく様子を見ることにする。 強引に会社を買うのも控える。 そう言ってくれたよ」
「ああ、よかった」
無意識に橘乃の口から安堵の言葉がこぼれる。一方、彼女の目は夫にくぎ付けになっていた。この人、案外とんでもない人かもしれない。
「ねえ、もしかして、要さんひとりで、お父さまをそこまで納得させたの?」
「そうだよ。僕が行った時には、みんな精根尽き果てていたからね」
なんでもないことのように、要が答えた。「でも、みんなが暴れる六条さんを抑えていてくれたよ」と、彼は言ったが、そんなことは問題じゃない。
「す、すごい」
「なにが?」
「なにがって、怒っているお父さまと一対一で対決できることが、よ」
「え、そんなの……」
「普通じゃないわよ。だって、私にはできないもの!」
父親に溺愛されているという自負のある六条家の娘たちだからこそ、怒っている六条源一郎というのは恐ろしい。彼をなだめるにせよ意見を言うにせよ、そういう時には絶対に近づかないという六条家での不文律を破ってまで怒れる父親に単独で立ち向かうだけの勇気があるのは、長女の紫乃ぐらいだ。ゆえに、要がしたことは命知らずの暴挙にも近い偉業だとしか、橘乃には思えない。それにもかかわらず、要は「おおげさだなあ」と笑う。
「六条さんは、そこまで怖い人ではないよ。道理に合わないことをゴリ押しする人でもないから、たいていのことは話せばわかってくれるよ」
「お父さまに道理が通じると思っている人なんて、世界中に要さんだけしかいないんじゃないしら」
他にもいるとしたら、八重ぐらいなものだろう。
「そうかなあ」
「そうよお。要さん、変よ!!!」
「『変』って……」
「だって、変だとしか思えないのだもの」
いつだったか、姉たちが誉めていた時には全くピンとこなかったか、橘乃にもようやくこの人の地味な凄さが実感できたような気がした。当たり前じゃないことを、なんでもないような顔してやってるところが、ものすごく普通じゃない。
「でも、そんなところが、すごくカッコイイ、かも?」
気恥ずかしさを感じながらも、彼の顔から目を離さずに小さな声で言ってみる。
「はい?」
「惚れ直しましたってことです」
「はぁっ??!」
口にしかけた茶で要が蒸せた。
「いきなり何を、言い出すかと思ったら」
「だって、想っているだけじゃ、伝わらないかと思って」
せき込んだせいで涙目になっている要を介抱しながら、橘乃が微笑む。
「結婚はしたけど、私たち、まだまだ知らないことばっかりね」
「付き合った時期からして最近だから、仕方ないよ。そういうのは不安?」
「ううん」
橘乃は首を横に振った。
「むしろ、楽しみ。だって、これから発見できることが沢山あるってことでしょう」
「……。橘乃さんこそ、変わっていると思う」
ようやく落ち着いた要が言った。
「普通の人は隠し事をされるのを嫌がるものだよね。夫婦ならなおさら、相手のことなら何でも知っておきたいと思うものなんじゃないの?」
「思うわよ。でも、無理矢理聞き出すことまでして相手のことを知ったところで、仲良くなったことにならないと思うの」
橘乃がゆっくりと首を振る。
「一緒の時間を過ごして、どうでもいいことをいっぱい話しているうちに、『この人になら話してもいい』って思えるようになったら、その時に聞かせてもらいたいなあ……って思うの」
夫婦仲を深めるというのはそういうことなのではないかと、橘乃は思う。
要という人間を付き合うべき対象とみなしてから、まだ一年も経っていない。しかも、周りの人間たちのほうが、ふたりの仲を取り持つことに熱心だった。要が自分を好きでいてくれるとは思う。けれども、彼から心からの信頼を受けるに値するだけの時間や機会に充分恵まれていたと思えるほど、橘乃は自惚れてはいない。
「それに、私だって、要さんに話せてないことが沢山あるもの」
話すだけの時間が取れなかったこともあれば、まだ話す気になれないこともある。
「ずっと話せないことも、あるかもしれないわよ」
「あるんだ?」
「そういうのは嫌? いますぐに話したほうがいい?」
「いつか話してくれるかもしれないんだよね?」
要は、しばらく考えた後、「ならば、かまわない」と笑った。
「橘乃さんの考え方に僕も乗るよ。いつか話してくれる気になってくれるように、もっと仲良くなれるように努力する。そのほうが楽しそうだからね。それに、春栄さんが言っていたんだ。『そのうち、奥さんに隠し事なんてできなくなるよ』って、本人は隠しているつもりだってことまでバレてしまうようになるって」
「あら、素敵。私も、そういう奥さんになれるように頑張ろうっと」
「なにもかもお見通しの奥さん?」
「困る?」
「そうだな…… 今は、ちょっと困るかも」
「隠し事、あるんだ?」
「……。そうだね」
要が腕を伸ばして橘乃の手に触れた。
「でも、いつか、君にちゃんと話したほうがいいかもしれないとも思っている」
「私も、いつか、要さんに聞いてもらいたいたいことがあるの。『聞いてほしいこと』というよりも、要さんに『訊きたいこと』って言った方がいいかもしれないけど」
要は、もう知っているだろうと思うけど。
知っているからこそ、隠してくれているのだろうけれども。
「なに?」
「だから、《いつか》。ね?」
もっと仲良くなってからでいい。 もっと互いのことがわかりあえてからのほうがいい。
ふたりの生活は始まったばかり。
ふたりが共有する時間は、これからたっぷりある。




