第9話 読解力満点
叔父は、門の外の電柱のところまで私を連れていった。
母には聞こえない距離で、声を落とした。
「借りたのは、これだけか」
「……はい」
「嘘をつくな」
「智花、俺を騙そうなんて、十年早いんだよ」
私は顔を上げなかった。紙の端を押さえている指に、力を足す。
叔父が紙のほうへ顎を振った。
「あの男、家を撮っていっただろう。物件の確認、と言ったんだぞ」
「車も見ただろ。あんなのが確認だけで済ませて帰ると思うか」
「一行だけの督促状なんてあるか。一か所から借りて、それで終わる奴がいるか。ほかにも借りて、この家をまた担保に入れたんじゃないのか」
叔父さん、読解力満点。
私は俯いたまま、唇を結んだ。紙の端は、押さえたままだ。
「……黙るってことは、そうなんだな」
「叔父さん、お願いです」
顔を上げずに言った。
「あと少しだけ、待ってください。そのことは、誰にも言わないでください。お母さんにも」
「智花」
「はい」
叔父の呼吸の音が変わった。
「ふざけるな! 担保に入ってる家に住めるか」
「取り立てってのはな、住んでる人間のところに来るんだ。名義なんか関係なしに来るんだぞ。うちには孫もいるんだ」
孫は、今は沙耶の実家にいる。それを言っても、叔父の中の絵は変わらないだろう。
叔父はスマホを出して、健吾の番号を押した。
「荷物をまとめろ。今日中だ。……いいから出すんだよ」
通話を切って、車庫のほうを見た。
「あのトラック、お前が呼んだのか」
「はい。断ることもできます」
「……使う」
そう言って、叔父は門の中へ戻っていった。
*
荷物を出すのに、午後いっぱいかかった。
冷蔵庫と洗濯機と、子ども用の椅子と、ホットプレート。運び出されるたびに、家の中の音の響き方が変わっていった。
「それ、置いてくの」
「いらねえよ、そんなの」
ダイニングテーブルは残った。
理由は聞かなかった。
母は、玄関の内側で、出ていく荷物と叔父のあいだを行ったり来たりしていた。
「邦彦、うちに来ればいいでしょ。実家のほう、部屋なら空いてるから」
「いい」
「じゃあ、お金のことは。私、あのとき出したぶん、まだ一円も」
叔父が段ボールを抱えたまま止まった。目だけが、私のほうへ来た。
「民子、見ろ。お前の娘だ。担保に入った家に、黙って俺たちを住まわせておくつもりだったんだぞ」
母の顔が、少し遅れて動いた。
「あれは自分でくれた金だろ。俺は返す約束なんかしてないぞ」
「……邦彦」
「こっちが頼む前に持ってきたのはそっちだ。返せなんて、今さら言うな」
叔父は段ボールを持ち直して、外へ出ていった。
母が健吾のほうへ一歩出た。
「健吾。あんた、おばさんの面倒を見てくれるって言ったでしょ」
「だって、面倒を見るなんて約束してないじゃん」
健吾は母の脇を抜けて、玄関の三和土に降りた。
「それより、おばさん、お金まだある? 智花の借金、親族の口座も止まるらしいから。あるなら今のうちに動かしといたほうがいいって」
そんな制度は、たぶんない。
「毎月、あんたに渡してたでしょう。今月のぶんも、もう」
「じゃあ、ないんじゃん」
健吾がスニーカーのかかとを踏んで、外に出た。
扉の閉まる音がした。
そのあとに、床の音がした。
*
振り返ると、母が三和土に倒れていた。
肩に手を当てた。名前を呼んだ。
2度目で、返事がないことがわかった。
私は119番を押して、住所を言った。2度目の住所だった。
「意識がありません。67歳、女性。さっきまで、普通に話していました」
口の右側が、下がっている。
救急隊が来るまで、私は母の頭の下に自分の上着を入れて、時刻を見ていた。玄関の外では、叔父がトラックの運転席の人に何か言っている。
母を乗せた車が出ていくのを、私は門のところで見送った。
笑わなかった。笑うという動作が、思いつかなかった。
*
病院の受付で、母の名前を伝えた。
「今、検査に回っています」
「診ていただけてるんですね」
「はい。お待ちください」
廊下のベンチに座った。
スマホを出して、父の番号のブロックを外した。
病院の名前、着いた時刻、私が見たこと。3つを短く書いて送る。
しばらくして、返事が来た。
「病院の名前、確認した」
「今から出る。夜には着く」
既読がついたことと、返信が来たことを確かめて、私は設定の画面に戻った。
もう一度、ブロックを選んだ。
*
鍵は、夕方に戻ってきた。
現在使っている鍵が2本と、予備が1本。玄関のシリンダーを替えたときの、業者の袋に入ったままだった。
叔父は「予備も入れて3本だ」とだけ言って、私の手のひらに置いた。私は袋の上から数えた。
仲介の担当者が中に入って、部屋を一つずつ確認した。人がいないこと、置いていかれた物がないこと、設備が一覧のとおりに残っていること。
「中、どなたもいらっしゃいません。お品物も残っていません」
「設備は」
「一覧のとおりです」
庭の野菜は、そのままだった。
*
決済は、翌々日の午前だった。
銀行の応接室に、買主と、司法書士と、仲介の担当者と、私が座る。
買主は40代の男の人で、書類を見る速度が速かった。
名前と勤め先を担当者から聞いたのは、媒介契約の翌日だ。健吾の会社で、役職は健吾よりだいぶ上だった。
条件が合ったから決めた。合った条件の中に、それが入っていなかったとは言わない。
書類に名前を書くとき、銀行のボールペンを借りた。軸にゴムのグリップが巻いてあって、握るとほんの少し沈む。
返すとき、机の上で一度転がった。
売買代金は、その場でローンの残りの返済に回った。抵当権を消す書類と、所有権を移す書類を、司法書士が茶封筒にまとめた。
「登記そのものは、法務局の処理が終わってからになりますので」
「はい」
「完了しましたら、ご連絡します」
買主が顔を上げて、一度だけこちらを見た。
「庭、そのままにしておきます」
「野菜ですか」
「もったいないので」
精算書の金額の欄で、桁を、左から右へ2度数えた。
売れた値段は、買ったときの2倍に届いた。この5年で、駅の向こうにホテルが二つできたそうだ。
そこから返済と、費用と、あとで納める税金の分を引いた。
残ったのは、5000万円に少し足りない額だった。買ったときの値段が、そのまま現金になって戻ってきたようなものだ。
建物の鍵は、決済の席で買主に渡した。3本とも。
*
それから2週間、私は東京で、いつもどおりに働いた。
母の容態は、父からの短い連絡で知る。私のほうからは何も聞かなかった。
金曜の夕方、人事からメールが届いた。
件名には、去年、私が断ったときと同じ言葉が並んでいた。




