第10話 今度は4LDKでいいから
出発の前に、有給を使い切った。
理沙とは朝いちばんの便で出る。行き先は理沙が決めて、私は寝ていた。
前の晩に来たメッセージは、こう。
「旅行の朝は、早起きなしでいい? せっかくの休みだし」
早起きなしで5時集合というのが、理沙の言葉の使い方だ。
向こうでは、ほとんど歩いていた。市場をひとつ見て、坂を上って、上ったところで何もなかったので下りた。
「何もないね」
「何もないね」
「下から見たとき、上に何かあるように見えたんだよ」
理沙は写真を撮りすぎて、2日目の夕方には容量が足りなくなっていた。削るものを選びながら、削る手が止まる。
「これ、どっちがいいと思う」
「同じ石畳じゃん」
「角度が違うでしょ」
賭けの話は、どちらも出さなかった。母の話も、家の話も出なかった。
理沙が聞かないから、私も言わずに済んだ。
3日目の朝、ホテルの前の段に座ってパンを食べていると、理沙が紙袋の口を折り返しながら言った。
「次はどこ行く」
「次があるの」
「あるでしょ。休みは毎年来るんだから」
「毎年」
「毎年」
そういうものなのか、と思った。毎年来るものとして休みを数えたことが、私には8年なかった。
「じゃあ、次は智花が決めてよ」
「決めていいの」
「今回、寝てたじゃん」
*
赴任したのは、秋の終わりだった。
部屋は、あの家の差額で買った。1LDK。
手続きは、思っていたより短かった。残りは、口座に置いてある。
「お一人には広いでしょう」
「ちょうどいいです」
不動産屋の人にはそう答えた。前の住人が残したカーテンレールのねじが、一本浮いている。
ドライバーを買って、自分で締めた。
台所は、一人分だった。
朝、湯を沸かして、湯が沸くまでのあいだに、誰かが入ってくる音を気にしなくていい。浴室のドアは閉めるけれど、閉めるのは癖であって、必要だからではない。
8年ぶりに、順番を待たずに風呂に入った。
引き出しのいちばん手前に、輪ゴムを入れる場所を作った。スーパーの野菜に巻いてあるのを外して、そこに溜めていく。
溜めて、時々使う。
鍋を一つと、フライパンを一つ買った。二つあれば足りる、というのを、買ってみて初めて確かめた。
仕事は忙しい。時差のせいで、日本とやり取りする時間が朝と夜に寄る。
そのぶん、昼のあいだは誰からも呼ばれない。
手当がついて、手取りは東京にいたころの倍近い。
理沙とは、月に一度くらい、どちらかの朝に話す。
「そっち、何時」
「7時。今、卵焼いてる」
「一人で?」
「一人で」
「いいね」
いいね、と言われて、私は返事をしなかった。何と返しても、説明になりそうだった。
毎月の返済は、ない。固定費の欄に、初めて空きができた。
*
母から連絡が来たのは、年が明けてからだった。
知らない番号で、メッセージアプリのアカウントも新しかった。どこで調べたのかは、書いていなかった。
長い文だった。
寝たきりが3か月続いたこと。起き上がれるようになったが、口の右側が下がったままであること。
日常のことは自分でできること。父が仕事を減らして、そばにいること。
「邦彦も健吾も、一度も来てくれないの」
本家のことは、その次の行からだった。
「叔母さんから電話があってね。本家のこと、全部話してくれたの」
邦彦が、あの家を買ったのが誰か、あとから知ったこと。健吾の会社の、だいぶ上の人だとわかって、それきり何も言わなくなったこと。
「健吾は、会社であの人に会うたびに、先に頭を下げるんだって」
沙耶さんが、離婚しないまま、子どもを連れて本家に戻ったこと。沙耶さんと子どもの食べる分は、本家が出していること。
「沙耶さんは、騙された、人生を返してって、毎日邦彦たちを責めてる」
「ご飯も洗濯も叔母さんがやって、保育園の送り迎えは邦彦なの。沙耶さんは、言いつけるだけ」
「本家のお金と物を、少しずつ自分の実家に運んでる」
「この前は、炊飯器まで持っていったのよ」
「叔母さん、電話の向こうで泣いてたの」
「邦彦に電話したら、もうかけてくるな、さっさと死ねって言われたの」
その下に、薬のことが続いていた。
「お母さん、毎朝血圧を測ってるの。薬も、時間どおりに飲んでるのよ」
「まだ死にたくないの」
死んでやる、と言ったときも、母は茶碗を持っていた。
火にかけたままの湯が、小さく音を立てはじめている。
スクロールを戻して、2度読んだ。
1度目は、さっさと死ね、の行で指が止まる。
2度目は、母のパートのことを探しながら読んだ。書いていなかった。
給食センターに戻ったのかどうかも、戻れる体なのかどうかも、この文には入っていない。
代わりに、父のことが二行あった。仕事を減らして、送り迎えをしている、と。
減らした分の収入がどうなっているかは、やはり書いていない。
母の文章は昔からそうだ。必要なことは全部そろっていて、必要な数字だけがない。
「智花、ごめんね。お母さん、もう一回やり直したいの。今度はちゃんと、智花のことを考えるから」
最後の行はそうなっていた。
私は湯を止めて、カップに注いだ。
*
次のメッセージが来たのは、そのすぐあとだった。
「それでね、お母さんお願いがあるの」
画面を見ながら、カップの縁に口をつけた。
「また家を買って、今度は4LDKでいいから」
湯気が、顔の高さで薄くなって消えた。
私は画面を下から上へ一度送って、名前の表示を長押しした。
出てきた一覧から、ブロックを選ぶ。
アカウントの画面に戻って、同じところをもう一度押した。
確認の窓が出た。
親指で、はい、を押した。
(了)




