第8話 母の土下座
門の前に、7人か8人いた。
近所の人が4人と、自転車を止めた人が二人。奥の車庫の前に、引っ越し便のトラックがいた。
呼んだのは私だ。使うかどうかは、まだ決まっていない。
健吾は玄関の前に立って、スマホを胸の高さで自分に向けていた。
「はい、来ました。今来ましたよ」
こちらに向き直って、レンズを私の顔の位置まで持ってきた。
私は手の甲で、その手首を横に払った。
「おい」
「顔は撮らないでください」
「撮ってねえよ、状況を撮ってんの」
健吾はレンズを自分に戻して、声を一段上げた。
「はい、というわけでですね、今日がその、出ていけって言われてる日なんですよ」
カメラに向かうときだけ、健吾は敬体になる。麦茶を飲みながら喋っていた人と、同じ声とは思えない。
玄関のコンクリートの段に、母が座っていた。脇に蚊取り線香の受け皿が出ていて、灰が半分ほど溜まっている。
私を見ると、母は手すりを掴んで立ち上がった。座っていた時間のわりに、素早い立ち方だった。
「智花」
エプロンから、厚みのある封筒を出した。
「お母さんが悪かったの。あんたに言わないで、叔父さんたちに貸したんだもの。ちょっとの間だけのつもりだったのよ」
「これ、家賃のつもり。受け取って」
封筒が、私の胸のあたりまで来た。
私は両手を後ろに回した。
「受け取りません」
「なんで。お母さん、謝ってるんだよ」
「受け取ったら、家賃をもらって貸していたことになります」
「そんな言い方しないで」
「言い方の話じゃないの」
健吾がレンズの角度を変えた。画面の端を、コメントが下から上へ流れていく。
〈実の親にこれはない〉
〈家の名義は?〉
2行目を読んだ人がいたことだけ、覚えておく。
玄関の内側に、叔父と、叔父の奥さんが立っていた。奥さんはサンダルの先を三和土に置いたまま、一度も口を開かなかった。
*
母が、膝を折った。
段の下のコンクリートに、両手をついた。額を、手の甲の少し上まで下げる。
「お願いします」
見ていた人の声の質が変わった。
「智花、この通りです。弟たちを追い出さないで。行くところがないんだよ。あんたのお母さんを、人殺しにしないでちょうだい」
健吾はスマホを下げない。半歩前に出て、母の背中と私の靴が同じ画面に入る位置を取った。
「見てくださいよ。親を追い出すって、普通できます?」
ここで登記の話をしても、誰も聞かない。
鞄には、登記事項証明書の写しが入っている。
それを出して読み上げたところで、画面の向こうに見えるのは、跪いた67歳と、立っている女だけだ。
道路のほうで、声がした。
「かわいそうに」
「親にあんなことさせて」
母の手の甲は、コンクリートの上で少し浮いていた。
つま先も揃っている。この姿勢を、母は長く保てる。
保てる人が、保てるだけの準備をして、ここに座っている。
鞄の中で、スマホが震えた。
私は鞄を肩から外した。足元に置いた。
膝を折った。
母の正面だった。
膝と膝のあいだは、たぶん40センチもなかった。母の白髪の分け目と、私の膝の砂利が、同じ高さに並んだ。
スカートの膝が、ざらついたコンクリートに触れた。帰ってから洗い直すことになる。
「お母さん、聞いて」
母が顔を上げた。
「私も、もう払えないの」
「……何を言ってるの」
「毎月の返済。5年、払った。去年から、もう回らない。別のところから借りて、返して、また借りて」
「智花」
「あの家を買うとき、私には無理だって言ったよね。お母さんが、大丈夫って言ったよね」
母が何か言おうとした。私は声を重ねた。
「取り立ての人が来るの。お母さんたちのところにも行くかもしれない。だから言えなかった。私が言えなかったの」
「智花、待って」
「だから、お願いします」
私は手をついて、頭を下げた。額はコンクリートに触れさせなかった。
触れさせる必要がないことは、さっき母が見せてくれた。
「お願いします。お願いします」
同じ言葉を3度言うと、相手は次の言葉を探せなくなる。母がいつも使う手だった。
母の喉から、音にならない音が出た。
「智花、やめて。人が見てるでしょ」
見せていたのは、と言いかけて、言わなかった。言えば、この場面の主語が私に戻ってしまう。
頭を下げたまま、私はもう一度「お願いします」と言った。
足元の鞄が、また震えた。取り出して、画面を下にして置く。
*
「姉さん、騙されてるぞ」
叔父が三和土から下りてきた。
「そんな金、借りられるわけないだろ。こいつは追い出したくて、嘘を言ってるんだ」
私は顔を上げて、鞄から二つ折りの紙を出した。
体を半分ひねって、健吾のレンズに背を向けたまま、母と叔父のほうだけに開いて見せた。
上に「督促状」と印刷してあった。私の氏名。
金額の欄に、1200万円。支払期限の日付。
銀行の名前は、どこにも入っていない。印も押していない。
伏せたスマホが、3度目に震えた。叔父が、その音のほうを見た。
母の目が、金額の桁を左から右へ移動した。
母は何も言わずに立ち上がって、コンクリートの汚れを払った。払ってから、私の手前に差し出したままだった封筒を、自分のエプロンのポケットに戻した。
戻す動作のほうが、差し出した動作より速かった。
「……ちょっと、切るわ」
健吾がスマホを下ろして、画面を数回叩いた。
門の外の路肩に、黒いセダンが停まっていた。半分だけ車道に出た停め方で、エンジンはかかったままだった。
運転席に若い男が座っている。降りてこない。
門のところに、人が一人増えていた。
黒いスーツに白いシャツ。ネクタイはしていない。
8月の昼にその格好で、短い髪の生え際だけが濡れている。顔は動かない。
革靴だけが、この暑さの中で光っていた。
去年の役の格好だ、と知っているのは私だけだった。
その人は表札を見て、公道へ2歩下がった。スマホを持ち上げる。
腕が上がったぶんだけ袖口が下がって、太い指輪と、手首の墨が覗いた。
「……そういう人じゃないの」
近所の人が一人、先に目を伏せて半歩下がった。
2枚、撮った。
脇の黒いクリアファイルを開いて、中の紙と表札を見比べた。
「東野智花さんのご自宅は、こちらで間違いないですか」
低い、平らな声だった。誰も答えなかった。
その人が叔父のほうを見た。
「お父さん、ご親族の方ですね」
叔父の口が開いて、音が出ないまま閉じた。
その人は待った。瞬きが少ない。
目が、礼儀で済む長さより長く叔父の顔にとまった。
「そうですか」
「今日は物件の確認だけです。日を改めて、伺います」
頭は下げなかった。門の中に入らないまま、来たほうへ歩いていく。
振り返らない。
ドアが閉まる音がして、セダンが道に出た。
見物していた人が、一人、また一人と離れていった。
叔父は、私の持っている紙を見ていた。見たあとで、紙ではなく、私の後ろの家のほうへ目を移した。
2階の窓から、雨どいの金具まで、順番に。
「智花」
「はい」
「あとで、話がある」




