第6話 年金の行き先
昼前に、叔父と健吾が来た。
健吾はクリアファイルを持っていて、中の紙をベッドの上の可動テーブルに置いた。テーブルには、母の食べ残したゼリーの容器がまだのっていた。
容器を端に寄せたのは健吾だった。
「智花、まあ聞けよ」
叔父がパイプ椅子を引き寄せた。
「俺も考えたんだ。何も言わずに住み続けるのは、確かによくない。だからこうしよう。あの家、俺が買う」
紙の1行目に、譲渡価格として500万円と書いてあった。
「それだけ出す。悪い話じゃないだろ」
「この条件なら、姉さんも安心できる。あとはここに名前を書けばいい」
私は2行目を読んだ。支払い方法の欄に、年16万円を30年、と印字してあった。
計算するまでもなかった。しても同じだった。
「この回数だと480万円です。1行目の額に、20万円足りません」
叔父が紙を覗き込んで、すぐに顔を上げた。
「端数は、最後にまとめて払うよ」
「その一文が、ここにありません」
「そういうのは、あとで足せばいいだろ」
「それと、30年後、私は60歳です。叔父さんは94歳になります」
叔父が笑った。笑ったところだけ、健吾と本当によく似ていた。
「縁起でもないこと言うなよ」
「縁起の話をしているのは、私じゃなくて、この支払い回数です」
母がシーツの上で手を動かした。
「智花、もういいでしょ。これだけ出すって言ってるんだから」
「買った値段は、この紙の10倍を超えています。差額は4500万円です」
私は紙を可動テーブルの上に戻した。
「お母さんがその差額を出してくれるなら、この条件でいいです」
「そんなお金、あるわけないでしょ」
「あるわけないものを、私に出せと言われています」
叔父がペンをキャップごと私のほうへ転がした。ペンは可動テーブルの縁で止まった。
「智花。こういうのはな、親戚同士で角を立てないために作る紙なんだ。金額は気持ちの問題だろ」
「気持ちの問題なら、金額を書かないでください」
「書かないと契約にならないだろ」
「そういう紙のことを、契約書というんだと思います」
叔父の口が、一度、何かを言う形になって、閉じた。
*
健吾が鼻から息を吐いた。
「智花さあ、金の話ばっかじゃん。昔からそうだよな。俺の誕生日に三輪車くれたときも、あれ、いくらだって聞いてきたじゃん」
聞いた覚えはない。あの三輪車は、もともと私のものだ。
「だいたいさ、おばさんが誰を頼りにしてると思ってんの。冠婚葬祭も、病院も、全部俺だから」
「健吾」
母の声が飛んだ。
「おばさんの年金、俺がもらってるんだから。智花より、ちゃんと頼りにされてんだよ」
母がベッドから手を伸ばして、健吾のシャツの袖を引いた。
引いたのは、言い終わったあとだった。
*
給食センターの、夏休みの洗浄当番。定年後に工場へ回してもらったという、父の選び方。
年金は入った日にもう減っている、と電話で言った母の声。別々の場所に置いてあったものが、置き場所を変えた。
「お母さん」
母は私のほうを見なかった。
「年金、健吾さんに渡してるの」
「……」
「毎月?」
母がシーツを握った。握って、それから、顔を上げた。
「だったら何なの」
そこからの母は、早かった。
「私のお金だよ。誰に渡すかまで、口を出さないで。健吾は私の面倒を見てくれるって言ってるの。あんたは東京にいて、私が倒れたって来ないじゃない」
来ないじゃない、という言い方を、私は今日、救急車の中で聞かなかった。誰が保証人の欄を書いたのかも、母は見ていない。
叔父が咳払いをした。
「まあ、姉さんにも将来のことがあるからな」
「そうそう。俺が面倒見るから」
健吾はそう言って、可動テーブルの契約書を指で叩いた。
私は立ち上がった。
「わかった」
3人が私を見た。
「お母さんの言うとおりだと思う。自分のお金を誰に渡すかは、その人が決めることだよね」
母が何か言いかけた。
「仕送りはやめるね。カードも止めるから、支払い方法を変えておいて」
「……え」
「今月の請求までは私が払う。来月から、水道とガスと、新聞と、あと保険の口座振替。変更しないと止まるから、早めにね」
「智花、何を言ってるの」
「私のお金だから。誰に渡すかは、私が決める」
母の口が開いて、閉じた。
私は鞄を持って、ドアのほうへ歩いた。
「付き添いは健吾さんにお願いします。入院費の精算も、1階の窓口で」
「智花、待ちなさい。智花」
ドアの手前で、健吾が私の前に立った。立っただけで、それ以上どうするかは決めていない立ち方だった。
「おい、おばさんが呼んでんだろ」
「聞こえてます」
横をすり抜けた。廊下で母の声が一度高くなって、看護師さんが早足で通り過ぎていった。
エレベーターのボタンを押して、待った。降りてくるまでのあいだ、階数表示の数字を3回読んだ。
*
帰りの新幹線で、スマホの画面を順番に触った。
自動送金の停止。次回分からの扱いになるという確認画面に、はい、と答える。
カード会社の窓口に電話をして、家族カードの利用停止と解約を伝えた。
「すでにご利用済みの分は、ご請求となりますが」
「はい」
「本会員様のお支払いとなります。よろしいでしょうか」
「そうしてください」
引き落としのリストを作って、母のメッセージに送った。水道、ガス、新聞、保険。
4行の箇条書きで、頭に「支払い方法の変更が必要です」と書いた。
既読はつかなかった。代わりに、着信が7件入った。
母から5件、叔父から2件。
留守番電話は一件だけ残っていた。再生はしなかった。
母の番号と、叔父の番号をブロックした。
指の動きは、機内モードを切り替えるのと同じくらいの手数だった。
*
部屋に着いたのは、日付が変わる少し前だった。
鍵を回して、玄関でスリッパを履く。左が少しへたっていて、履くたびに親指のところが沈む。
ルームメイトはもう寝ていた。廊下の電気は点いたままで、キッチンの流しに鍋が一つ置いてあった。
自分の部屋に入って、鞄を床に置いた。ベッドの端に座って、靴下を脱いだ。
電気を消した。




