第4話 目を閉じたまま
救急車に一緒に乗ったのは私だった。叔父は自分の車で来ると言い、健吾は玄関に残った。
検査の説明を受けた。書類を書いた。
支払いの窓口に、2度行った。
保証人の欄に自分の名前を書きながら、この手続きは前にもやったな、と思う。母が入院するのは、これで4度目だ。
4度とも、書類を書いたのは私だ。
病室に入ったのは夕方だった。母は目を閉じていて、眠っているのではないと、入ってすぐにわかる。
呼吸の間隔が、起きている人のそれだった。
「お母さん」
返事はない。
唇を結んで、枕に頭を沈めて、まぶたを動かさない。シーツの上に出した手が、指の形だけ整っている。
私は丸椅子に座って、紙コップに水を汲んできて、サイドテーブルに置いた。
*
この顔を、私は知っている。
小学4年のとき、健吾の誕生日に母が私の三輪車を持っていった。
「もう乗ってないでしょ」
「乗ってないけど」
「じゃあ、いいじゃない」
乗っていないのは本当だったから、私は何も言えなかった。
言えなかったのに、その夜、泣いた。それで母は、3日間、口をきかなかった。
ご飯は作ってくれた。洗濯もしてくれた。
ただ、私のほうを見ない。私が話しかけても、父としか話さない。
「お母さん、ごめんなさい」
3日目の夜に、私はそう言った。
何を謝ったのかは、今でもわからない。それでも母は「わかればいいの」と言って、私の頭を撫でた。
撫でられて、安心した。安心した自分のことを、30歳の私はまだ持て余している。
それから何度も、同じことが起きた。回数を重ねるうちに、私が折れるまでの日数は短くなっていった。
今、ベッドの上のまぶたは、あのときと同じ角度で閉じている。
紙コップの水は、減っていない。
*
廊下に出て、父に電話をかけた。
3回目でつながった。父の声の後ろで、換気扇のような音が回っていた。
事実だけを順番に話した。庭の野菜、鍵、登記、叔父一家、母が倒れたこと。
話し終わってからも、父は何も言わなかった。私は電話を耳から離して、まだつながっていることを画面で確かめた。
「父さんが悪かった」
それが最初の一言だった。
「あの家に住み始めたときから知ってた。お母さんがまた騒ぐのが嫌で、言わなかった。智花が知らずに払ってるのも、わかってた」
父がこんなに続けて喋るのを、私は初めて聞いたかもしれない。
「定年のあと、再雇用で向こうの工場に回してもらった。単身赴任なら、家にいる時間が減るだろう。……そういう選び方をした」
「うん」
「ごめん」
謝罪は、受け取らなかった。受け取れないのではなく、受け取ったところで何も変わらないからだ。
「お母さん、今日中に検査の結果が出る。何かあったら連絡する」
「智花」
「うん」
「お父さん、行ったほうがいいか」
行ったほうがいいか、と私に聞く。そこが父だった。
「わかんない」
正直に言って、切った。
*
病室に戻ると、叔父がパイプ椅子に座っていた。
母の目が開いていた。開いているどころか、叔父の言うことにいちいち頷いて、水を飲むかと聞かれて首を振っていた。
「姉さん、無理するなよ」
「うん。邦彦も、忙しいのにごめんね」
私が座っていた丸椅子は、壁際に寄せられていた。
「智花」
叔父がこちらを向いた。声は穏やかだった。
「お前も大人なんだから、わかるだろう。空いてる家を家族に使わせて、何が悪い。名義は智花のままだろ」
「固定資産税も、ローンも、私が払っています」
「だから名義がお前なんだよ。誰も取ってないじゃないか」
麦茶のコップを置いたときと同じ理屈だ、と思った。健吾は父親と同じ順番で話す。
私は立ち上がった。
「じゃあ叔父さん、家族ですから、叔父さんのところのお金も、置いてあるだけなら私に使わせてください」
叔父の頷きが止まった。
「何を言ってるんだ」
「同じことを言っています」
母がベッドの上で身を起こした。さっきまで目を閉じていた人の起き方ではなかった。
「智花、やめなさい。叔父さんに向かって、何て口の利き方」
「お母さん」
「文句があるならお母さんに言いなさい。お母さんが住んでいいって言ったの。私はあんたを二十何年育てたのよ。命をくれって言ったって、あんたは出すべきなの」
出すべき、という言葉の形が、耳の奥に引っかかった。
「大学の学費、私が借りました」
母が黙った。
「返し終わったのは、家を買う前の年です。家庭教師とチラシ配りで生活費を作りました。合格祝いにもらったスマホは、箱を開ける前に健吾さんのところへ行きました」
「あれは、男の子は彼女と出かけるのに格好がつかないと困るでしょ」
「それは、私が聞いた答えと同じです」
12年経って、一字も変わっていない。
「とにかく、叔父さんに謝りなさい」
母がシーツを握った。
「謝って、住んでていいって言いなさい。それで全部おさまるんだから」
私は丸椅子を壁際から戻して、座らなかった。背もたれに手を置いただけだ。
「謝りません」




