第3話 鍵の合わない玄関
法務局の待合の椅子は、背もたれが高すぎる。
番号札は38番。前に6人いて、そのうち二人は封筒を何度も開け閉めしている。
私も同じことをしていたと、呼ばれてから気づいた。
「土地と建物、両方でよろしいですか」
「両方で。2通ずつお願いします」
土地と建物の登記事項証明書を、窓口で受け取った。
所有者欄には、私の名前と、都内の住所。抵当権の欄には、借りている銀行の名前と、借入の金額。
紙を封筒に戻して、番号札を返却の箱に入れた。プラスチックの角が、箱の中の他の札に当たって鳴った。
*
分譲地は、一番奥の区画だけ木が育っていた。
門の内側、車庫の壁際に、パラソルとガーデンソファが畳んで積まれていた。ビニール紐で縛って、その上に何かのカバーをかけてある。
カバーの端に、雨水が溜まっていた。
門から玄関までの通路の左。レンガ2段の花壇に、ミニトマトの支柱が4本立っていた。
きゅうりのネットも張ってある。土は黒く湿っていて、今朝も水をやったのだとわかる。
写真と同じだ。同じというより、写真のほうがここだった。
玄関の脇に、子ども用の自転車が2台。うち一台は補助輪が付いている。
その隣に、しぼんだビニールプールが立てかけてあった。
私は鍵を出した。
差し込んで、途中で止まる。少し引いて、回す。
動かない。シリンダーの縁に傷がなくて、そこだけ新しかった。
指先の感覚がなくなって、それから、戻ってきた。
インターホンを押した。
*
出てきたのは、エプロンをつけた女の人だった。私より少し若い。
「どちらさまですか」
答える前に、奥から男の声がした。
「誰?」
廊下の先から出てきたその人が、こちらを見て足を止めた。
「……智花?」
「健吾くん」
最後に会ったのは、たぶん祖母の法事のときだ。
「智花さん?」
女の人が、健吾と私を見比べて、エプロンの紐を直した。
「妻の沙耶です。どうぞ、上がってください」
上がらせてもらった。自分の家に、上がらせてもらった。
廊下には子ども用の小さな傘立てと、背の低い靴箱が増えていた。私が選んだダイニングテーブルの上に、ホットプレートと、子ども用の椅子。
壁には保育園のカレンダーが画鋲で留めてある。
窓の桟に、白い粉のような洗剤がこぼれたまま乾いていた。生活の跡というのは、こういう細かいところに出る。
「何年になるの、ここ」
「5年近いじゃん」
健吾はソファに座って、リモコンでエアコンの温度を下げた。
「正月にそっち行ってたの、気づかなかった? おばさんがさ、智花には言うなって。大変な思いして働いてるのに、気ぃ悪くするからって」
「ここ、私が気に入ったんです」
健吾の妻の沙耶が麦茶を持ってきて、テーブルに置いた。
「お義父さんたちが買ってくれて。あのとき、お金を貸してもらえなかったので、自分たちで何とかするしかなくて」
貸してもらえなかった。その言い方が、4年半ぶりに私の耳に届いた。
健吾の結婚のときに断った頭金。そのあとに来た、家を買いなさいという電話。
母がモデルハウスの前で言った、二世帯で使うならこの形がいい、という言葉。
順番が、私の頭の中で並び替わっていく。並び替わったからといって、母が最初からこれを考えていたと、私が知っているわけではない。
知っているのは、順番だけだ。
「智花さあ、まだルームシェアなんだろ」
健吾が麦茶を飲んで、コップを置いた。
「いい大学出てさ、いい会社入ってさ、それで風呂も台所も他人と一緒って、どうなの。俺、勉強はできなかったけどさ」
「結婚しないんだって? だったら、うちの子に残してくれればいいじゃん。面倒は見るよ。2階の納戸、空いてるし」
「納戸って、あの2階の」
「そう。荷物どかせば入るじゃん」
納戸。
私が鞄に手を入れたのは、そのときだ。
*
玄関が開く音がした。
「智花」
母が靴も脱がずに廊下を上がってきて、私の腕を掴んだ。細い指のわりに、力が強い。
「帰るよ。今すぐ」
その後ろに、叔父が立っていた。何も言わずに、こちらを見ている。
腕を引かれながら、私は鞄から封筒を出した。中の紙を抜いて、テーブルの上に置く。
「この家、私の名義です」
沙耶が紙を取った。健吾が横から覗き込んで、目を上から下に一度動かした。
「所有者、東野智花。私です。買ったのも私。ローンを払っているのも私」
「健吾さん、荷物はいつ出せますか」
くん、と呼ばなかったことに、自分で気づいた。
「7日以内にお願いします。届いた日から7日、と書面でも出します」
「買ってもらったって言ったよね」
沙耶が、紙を持ったまま健吾のほうを向いた。
「どうして名義が違うの?」
「いや、俺も、父さんが買ったって聞いてたんだよ」
「聞いてた、って何」
母が私の手から証明書を取ろうと、身を乗り出した。私は封筒ごと胸のほうへ引いた。
「返しなさい、それ」
母がそう言ったことで、沙耶の顔がもう一度こちらを向いた。
私は片手でスマホを出して、110番を押した。
*
警察官は二人で来て、玄関先までしか上がらなかった。
私は証明書を見せた。母は自分の身分証を出して、こう言った。
「私が住んでいいって言ったんです。私の弟なんです。この家は娘が親のために買ったんです」
若いほうの警察官が、手帳から顔を上げた。
「お母様がお住まいを許可されたという話になると、使用貸借といった民事のご主張が出てきます。そうなると、登記だけでは今日ここでお引っ越しいただくことはできません」
「そんな」
「ご本人同士でお話がつかない場合は、弁護士さんか、市の相談窓口をご案内する形になります」
年上のほうの警察官が、庭のほうと、廊下の奥を順番に見た。それから母と叔父に、大きな声は出さないように、とだけ言った。
私は自分が何を言うべきか、考えていた。
「所有者として、退去してくださいと言っています。応じていただけない場合は、不退去の主張を含めて書面で出します。期限は日付と時刻を入れて書きます」
声が、思ったより低く出た。
警察官が私の名前と連絡先を控えて、帰っていった。パトカーのドアが2回閉まる音が、門の外から聞こえた。
玄関に、5人が残った。
「智花」
母が私の名前を呼んだ。さっきまでと違う高さの声で、もう一度。
「智花、お母さんの顔を」
言葉の途中で、切れた。
音がして、母が廊下に倒れた。
スリッパが片方、框のところまで滑っていった。
私は膝をついて、母の肩に手を当てた。反応がない。
もう片方の手でスマホを掴んで、画面を見ないまま3つの数字を押した。
「もしもし。人が倒れています。67歳、女性です」
住所を、私は言えた。自分の家の住所だった。




