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水守異聞 潮の井戸が眠る島  作者: 天手古まい


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3/5

第三話 石の唄

「壊せない」


 母は、石蔵を見上げたまま言った。


 分厚い石壁に、瓦屋根。


 台風にも潮風にも耐え、祖母の家より長くそこに建っている。


「下に水路があるかもしれないの」


「かもしれない、で壊せるものじゃないでしょ」


「井戸の水を戻せるかもしれない」


「役場の人に話しなさい。私たちだけで決めることじゃない」


 正しい答えだった。


 それでも紬には、母が水路ではなく、別の何かを拒んでいるように見えた。


「この家、そんなに大事?」


 母の眉が動いた。


「売るつもりだったのに」


「売るからよ。蔵を壊したら価値が下がる」


「島の水がなくなりそうなのに?」


「簡単に言わないで」


 母の声が、初めて大きくなった。


「おばあちゃんが井戸を守るって言うたびに、誰が代わりに病院へ連れていったと思う? 台風の夜、誰が一緒にここへ泊まったと思う? 島の人はハルさん、ハルさんって頼った。でも、そのあとのことは全部、家族に戻ってきたの」


 紬は何も言えなかった。


「私は、この家を片づけて、終わりにしたいの」


 母の言葉は冷たくなかった。


 疲れていた。


 祖母を嫌っているのではない。


 大切だったからこそ、長いあいだ背負ってきた重さがあった。


     ◇


 航平の父と役場職員が来たのは、日が傾いてからだった。


 山の石水路を確認し、古い地籍図と現在の図面を重ねる。


 現在の水道図には何もない。


 だが、明治の初めに描かれた字図には、山から祖母の家へ延びる細い青線があった。


「導水路で間違いなか」


 航平の父が言った。


「山の湧水ば、石樋で井戸まで引いとったとやろう」


「今も水は流れています」


 山の水を採取した職員が、検査紙を見せた。


「量は分かりませんが、湧水自体は生きています。ただ、どこかで塞がれている」


 石蔵の床には、一枚だけ音の違う石があった。


 叩くと、下に空洞がある。


 床石の隙間から細いカメラを差し入れると、画面に石造りの空間が映った。


 土砂。


 朽ちた木材。


 そして、奥でかすかに光を返す水。


「点検口か、水門室かもしれん」


「ここを開ければ、水が戻るんですか」


 紬が尋ねると、航平の父はすぐには頷かなかった。


「調べんと分からん。水が溜まっとるなら、下手に開ける方が危なか。水圧で古い石組みが崩れれば、二度と使えんようになる」


 役場職員の無線が鳴った。


 島内の貯水は、予想より早く減っている。


 診療所と高齢者施設を優先すれば、一般向けの給水は翌日の夕方まで。


 海は明日の朝まで荒れる予報だった。


 給水船は来られない。


 送水管の修理にも、数日はかかる。


 皆の視線が、石蔵へ集まった。


 最後に決めるのは、持ち主である母だった。


「一晩、考えさせてください」


 母はそう答えた。


     ◇


 夜、紬は再び井戸をのぞいた。


 少女は現れなかった。


「いるんでしょ」


 水面へ呼びかける。


「道は見つけた。どうすればいいの」


 返事はない。


「水守なんでしょ。水を守るんじゃないの?」


 苛立ちに任せて言うと、水面が揺れた。


 少女の顔が、月の隣に浮かんだ。


「守るのは、水ではありません」


「じゃあ、何を守るの」


「水と人が、再び出会える道を」


「同じじゃない」


「違います」


 少女は静かに紬を見た。


「道を開くか、閉じたままにするか。選ぶのは、いつも人です」


「ずるいよ」


「そうかもしれません」


 少女は否定しなかった。


 その姿が消える直前、紬は水の中に別の光景を見た。


 激しい雨。


 山から押し寄せる泥水。


 石蔵へ駆け込む、若いころの祖母。


 祖母は誰かと力を合わせ、石の板を溝へ落とした。


 山から来た濁流が止まり、集落へ入るのを免れる。


 しかし同時に、潮の井戸へ注いでいた清水も途絶えた。


 水道が整備されたのは、その数年後。


 閉じられた水路は、必要のないものとして忘れられた。


 光景が途切れた。


「おばあちゃんが、閉じたの……?」


「あの日は、それが人を守る道でした」


 水守の声だけが聞こえる。


「では、今は?」


 答えは、紬たちが出さなければならなかった。


 家へ戻ると、母が祖母の手帳を開いていた。


 紬が見つけていなかった、最後の頁だった。


 そこには、震える字で一文だけ記されていた。


 潮の井戸が塩辛くなったなら、家より先に、水の道を残せ。


 母は長いあいだ、その文字を見ていた。


 やがて手帳を閉じる。


「明日の朝、役場の人を呼んで」


「お母さん」


「蔵を開けます」


 母は泣かなかった。


 ただ、肩から何かを下ろすように、深く息を吐いた。


「あの人は、最後まで自分で言わないんだから」


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