第三話 石の唄
「壊せない」
母は、石蔵を見上げたまま言った。
分厚い石壁に、瓦屋根。
台風にも潮風にも耐え、祖母の家より長くそこに建っている。
「下に水路があるかもしれないの」
「かもしれない、で壊せるものじゃないでしょ」
「井戸の水を戻せるかもしれない」
「役場の人に話しなさい。私たちだけで決めることじゃない」
正しい答えだった。
それでも紬には、母が水路ではなく、別の何かを拒んでいるように見えた。
「この家、そんなに大事?」
母の眉が動いた。
「売るつもりだったのに」
「売るからよ。蔵を壊したら価値が下がる」
「島の水がなくなりそうなのに?」
「簡単に言わないで」
母の声が、初めて大きくなった。
「おばあちゃんが井戸を守るって言うたびに、誰が代わりに病院へ連れていったと思う? 台風の夜、誰が一緒にここへ泊まったと思う? 島の人はハルさん、ハルさんって頼った。でも、そのあとのことは全部、家族に戻ってきたの」
紬は何も言えなかった。
「私は、この家を片づけて、終わりにしたいの」
母の言葉は冷たくなかった。
疲れていた。
祖母を嫌っているのではない。
大切だったからこそ、長いあいだ背負ってきた重さがあった。
◇
航平の父と役場職員が来たのは、日が傾いてからだった。
山の石水路を確認し、古い地籍図と現在の図面を重ねる。
現在の水道図には何もない。
だが、明治の初めに描かれた字図には、山から祖母の家へ延びる細い青線があった。
「導水路で間違いなか」
航平の父が言った。
「山の湧水ば、石樋で井戸まで引いとったとやろう」
「今も水は流れています」
山の水を採取した職員が、検査紙を見せた。
「量は分かりませんが、湧水自体は生きています。ただ、どこかで塞がれている」
石蔵の床には、一枚だけ音の違う石があった。
叩くと、下に空洞がある。
床石の隙間から細いカメラを差し入れると、画面に石造りの空間が映った。
土砂。
朽ちた木材。
そして、奥でかすかに光を返す水。
「点検口か、水門室かもしれん」
「ここを開ければ、水が戻るんですか」
紬が尋ねると、航平の父はすぐには頷かなかった。
「調べんと分からん。水が溜まっとるなら、下手に開ける方が危なか。水圧で古い石組みが崩れれば、二度と使えんようになる」
役場職員の無線が鳴った。
島内の貯水は、予想より早く減っている。
診療所と高齢者施設を優先すれば、一般向けの給水は翌日の夕方まで。
海は明日の朝まで荒れる予報だった。
給水船は来られない。
送水管の修理にも、数日はかかる。
皆の視線が、石蔵へ集まった。
最後に決めるのは、持ち主である母だった。
「一晩、考えさせてください」
母はそう答えた。
◇
夜、紬は再び井戸をのぞいた。
少女は現れなかった。
「いるんでしょ」
水面へ呼びかける。
「道は見つけた。どうすればいいの」
返事はない。
「水守なんでしょ。水を守るんじゃないの?」
苛立ちに任せて言うと、水面が揺れた。
少女の顔が、月の隣に浮かんだ。
「守るのは、水ではありません」
「じゃあ、何を守るの」
「水と人が、再び出会える道を」
「同じじゃない」
「違います」
少女は静かに紬を見た。
「道を開くか、閉じたままにするか。選ぶのは、いつも人です」
「ずるいよ」
「そうかもしれません」
少女は否定しなかった。
その姿が消える直前、紬は水の中に別の光景を見た。
激しい雨。
山から押し寄せる泥水。
石蔵へ駆け込む、若いころの祖母。
祖母は誰かと力を合わせ、石の板を溝へ落とした。
山から来た濁流が止まり、集落へ入るのを免れる。
しかし同時に、潮の井戸へ注いでいた清水も途絶えた。
水道が整備されたのは、その数年後。
閉じられた水路は、必要のないものとして忘れられた。
光景が途切れた。
「おばあちゃんが、閉じたの……?」
「あの日は、それが人を守る道でした」
水守の声だけが聞こえる。
「では、今は?」
答えは、紬たちが出さなければならなかった。
家へ戻ると、母が祖母の手帳を開いていた。
紬が見つけていなかった、最後の頁だった。
そこには、震える字で一文だけ記されていた。
潮の井戸が塩辛くなったなら、家より先に、水の道を残せ。
母は長いあいだ、その文字を見ていた。
やがて手帳を閉じる。
「明日の朝、役場の人を呼んで」
「お母さん」
「蔵を開けます」
母は泣かなかった。
ただ、肩から何かを下ろすように、深く息を吐いた。
「あの人は、最後まで自分で言わないんだから」




