第二話 水は道を忘れない
水守は、水を生み出す神ではありません。
忘れられた「水の道」を覚え、人へ示すだけ。
祖母が残した一冊の手帳と不思議な童歌を手に、紬は幼なじみの航平と島の山へ向かいます。
翌朝、井戸の底に少女はいなかった。
寝ぼけていたのだと思うこともできた。
台風の夜に、祖母を亡くしたばかりの孫が、昔話の夢を見た。
それだけなら、誰に説明しても納得されるだろう。
だが、風鈴は縁側に吊るされたままだった。
「お母さん、これ動かした?」
「何を?」
台所で水を節約しながら朝食を作っていた母は、風鈴を見て眉を寄せた。
「鞄に入れてなかった?」
「入れてた」
「なら、自分で吊るしたんでしょ」
「覚えてない」
「疲れてるのよ」
母はそれ以上、取り合わなかった。
紬も、水面に少女がいたとは言えなかった。
◇
代わりに、昨日の木箱をもう一度開けた。
錆びた鍵を一本ずつ確かめ、手拭いを広げる。
何もない。
箱の底を指で押すと、板がわずかに浮いた。
二重底になっていた。
中から現れたのは、黒い表紙の手帳だった。
表紙には、祖母の字で二文字だけ書かれている。
――井守。
最初の頁には、潮の井戸の水位と味、雨量らしき数字が何十年分も記録されていた。
何月何日、雨。
何月何日、渇水。
井戸水、わずかに潮の気あり。
井戸水、澄む。
紬が生まれた日にも、記録があった。
六月十二日。大雨。
紬、生まれる。井戸水、よし。
たったそれだけの文を、紬はしばらく見つめた。
頁をめくっていくと、途中から数字ではなく、同じ短い歌が繰り返し書かれていた。
幼いころに聞かされた童歌だった。
朝日の石に背を向けて、
三つ曲がりの松を越え、
鐘鳴らぬ堂で耳澄ませ。
海へ帰らぬ水を追え。
潮の戸を開くその前に、
山の小さき息を通せ。
「朝日の石……」
紬には、心当たりがあった。
島の東側、朝日を最初に受ける岬に、背丈ほどの立石がある。
観光案内にも載らない、ただの古い石だ。
祖母は、あれを朝日の石と呼んでいた。
紬は幼なじみに電話をかけた。
『断水中に何』
「航平、暇?」
『給水所の手伝い。暇に聞こえる?』
「終わってからでいい。朝日の石まで来て」
『何で』
「水を探す」
電話の向こうが、しばらく静かになった。
『とうとう暑さでやられた?』
「切るよ」
『待てって。夕方なら行ける』
◇
西田航平は、作業着のまま軽トラックでやってきた。
同じ高校の三年生で、家は島唯一の建設会社を営んでいる。
卒業後は福岡の専門学校へ行き、いずれ島へ戻るつもりらしい。
島を出たい紬と、戻りたい航平。
その違いのせいで、二人は最近あまり話さなくなっていた。
「水を探すって、ペットボトルなら配っとるぞ」
「山の水」
紬は祖母の手帳を渡した。
航平は童歌を読み、紬の顔を見る。
「ハルばあちゃんの?」
「うん。昔、山から潮の井戸まで水が来てたんじゃないかと思う」
「水路があったってこと?」
「たぶん」
「たぶんで山に入る気?」
「一人でも行く」
「そう言うと思った」
航平は軽トラックの荷台から、ヘルメットを二つ下ろした。
「親父には、石積みを見に行くって言っといた。危ない場所には入らんぞ」
「まだ何も頼んでないけど」
「言ってから準備するやつじゃなかろうが」
朝日の石は、海を見下ろす斜面に立っていた。
台風で折れた枝が道を塞ぎ、地面はまだぬかるんでいる。
石を背にすると、正面に三本の松が見えた。
いや、よく見れば一本の幹が、根元近くで三つに分かれている。
「三つ曲がりの松」
紬が呟く。
「歌の通りだな」
二人は松を越えた。
その先には、小さな石堂があった。
屋根の下に鐘を吊るす金具だけが残り、鐘そのものはない。
「鐘鳴らぬ堂」
航平の声から、疑う響きが消えていた。
耳を澄ます。
蝉の声。
風に擦れる葉音。
遠くの波。
それらに交じって、地面の下から、ごく小さな音がした。
こぽり。
こぽり。
水の音だった。
二人で草を払い、土を掘る。
やがて、平たい石を組んだ細い溝が現れた。
溝は土砂で埋まっているが、石の隙間は濡れていた。
「石の水路だ」
航平がしゃがみ込む。
「いつのだ、これ」
溝は山側から海の方へ、緩やかに下っていた。
二人は地表に残る石の列を追った。
畑の脇を抜け、竹藪を回り、集落へ下る。
そして、祖母の家の裏で立ち止まった。
石の列は、売却するため片づけていた古い石蔵の下へ、まっすぐ延びていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
祖母の童歌に導かれ、紬たちは忘れられた石の水路を見つけました。
しかし、その水路が行き着いたのは、売却予定の祖母の石蔵の真下。
島を救うか、家を残すか。
そして水守は、今回も答えを決めてはくれません。
次回、第三話「石の唄」。




