第一話 潮の味がする井戸
本日より、全五話の短編、
『水守異聞 潮の井戸が眠る島』
をお届けします。
『佐和山若旦那録』から続く「水守」の物語ですが、前作を読んでいない方にも、この作品だけで楽しんでいただけます。
舞台は現代の離島。
潮の味がする古井戸から、新たな物語が始まります。
第一話 潮の味がする井戸
古より、この国には水守の話が伝わっている。
雨を降らせる神ではない。
洪水を消し去る仙人でもない。
水がかつて通った道と、人が水に交わした約束を、決して忘れぬ者だという。
けれど、水守を見たという者は少ない。
水は、道を忘れない。
忘れるのは、いつも人の方だからだ。
◇
「これ、捨てていい?」
平山紬は、埃をかぶった木箱を持ち上げた。
返事はなかった。
開け放した障子の向こうで、母の理恵は古い食器を新聞紙に包んでいる。
波の音と、紙の擦れる音だけが、祖母の家に残っていた。
「お母さん」
「聞こえてる。中を見てからにして」
「また手紙だったら、読まないよ」
「ハルばあちゃんのものなんだから、勝手に決めない」
母の声は、いつもより少しだけ硬かった。
祖母の四十九日は、昨日終わった。
島の者はほとんど全員、葬式にも法要にも顔を出した。
井戸を守ってくれた人。
島の昔話を知っていた人。
困ったとき、最後に頼れる人。
皆が、祖母をそう呼んだ。
けれど紬にとっては、祖母は祖母だった。
幼い紬を膝に乗せ、同じ童歌を何度も聞かせた。
島を出たいと言えば、寂しそうに笑った。それでも一度として、残れとは言わなかった。
箱の蓋を開ける。
中に入っていたのは、色褪せた手拭いと、錆びた鍵の束。
それから、貝殻で作られた小さな風鈴だった。
軒先に吊るしてあったものだ。
「……これは取っとく」
紬は誰にともなく言って、風鈴だけを自分の鞄へ入れた。
◇
九州の西に浮かぶ汐路島は、歩いて一周できるほどではないが、車なら一時間もかからない。
高校は分校。
コンビニは一軒。
信号機は二つ。
海はきれいだった。
夕日も、観光客が来れば歓声を上げるほど美しい。
だからといって、一生ここで暮らしたいとは思わなかった。
島では、誰もが紬のことを知っている。
祖母の孫。
理恵の娘。
来年には島を出る子。
自分の名前より先に、誰かとのつながりで呼ばれる。
紬は、それが少し息苦しかった。
昼を過ぎたころ、空が急に暗くなった。
台風は昨夜、島の南を通り過ぎたはずだった。
しかし吹き返しの風は強く、庭の夏蜜柑が大きく揺れている。
不意に、防災無線が鳴った。
『役場からお知らせします。昨夜の台風により、海底送水管に破損が確認されました』
母の手が止まった。
『復旧まで、島内全域で断水となります。各地区の給水所については――』
「また?」
紬が言うと、母は首を振った。
「前は停電でポンプが止まっただけ。管が切れたなら、すぐには直らない」
汐路島の水道水は、海の下を通る一本の管で、隣の大きな島から送られてくる。
島内にも貯水槽はあるが、観光客の多い夏場だ。
節水しても二日は持たないらしい。
しかも、海はまだ荒れている。
給水船が接岸できる見込みも立っていなかった。
「昔は、井戸の水を使ってたんでしょ」
「昔はね」
母は庭の隅へ目を向けた。
石垣のそばに、丸い石蓋がある。
――潮の井戸。
祖母の家の前庭にある古井戸は、かつて集落の共同井戸だった。
海から百歩も離れていないのに、真水が湧く。
不思議な井戸として、島外から見物に来る者もいたという。
だが、水道が通ってから使われなくなった。
紬が物心ついたころには、危険だからと石蓋を載せられ、祖母がときどき掃除をするだけになっていた。
◇
夕方には、役場の職員と消防団がやってきた。
石蓋が、何十年ぶりかに動かされた。
井戸の中は暗かった。
懐中電灯の光を落とすと、ずっと下で黒い水面が揺れた。
「水はあるな」
「ポンプ、持ってきます」
集まった島民から、安堵の声が漏れた。
だが、汲み上げた水を簡易検査した役場職員は、すぐに顔を曇らせた。
年配の消防団員が、指先についた水を舐める。
「しょっぱい」
その一言で、皆が黙った。
紬も紙コップの水に指を浸し、ほんの少しだけ口へ運んだ。
舌に残ったのは、間違いなく潮の味だった。
「海水が入っとる」
「もう使えんとや?」
「飲み水には無理です。生活用水に使えるかも、詳しく調べないと」
期待していた分だけ、落胆は大きかった。
誰かが祖母の名前を口にした。
「ハルさんがおれば、何か知っとったかもしれんな」
その言葉が、紬の胸に引っかかった。
生きている間に聞けばよかったではないか。
祖母が何度も井戸の話をしたとき、笑って聞き流したのは、自分も同じだったけれど。
◇
その夜、紬は喉の渇きで目を覚ました。
冷蔵庫には、配給されたペットボトルの水がある。
台所へ向かおうとして、風鈴の音を聞いた。
ちりん。
鞄の中へ入れたはずの風鈴が、縁側に吊るされていた。
戸は閉まっている。
風もない。
それでも風鈴は、もう一度鳴った。
ちりん。
庭の方から、水の匂いがした。
紬はスマートフォンの明かりを手に、外へ出た。
井戸には、昼間とは違う仮の蓋が置かれている。
その隙間から、月の光が細く差し込んでいた。
近づいて、のぞく。
水面に、少女が立っていた。
青い衣をまとい、長い髪を背へ流している。
井戸の底に立てるはずがない。
映っているだけなのかと思い、紬は振り返った。
誰もいない。
もう一度、井戸を見る。
少女は水面から、まっすぐ紬を見上げていた。
「誰……?」
逃げるより先に、声が出た。
少女の唇が、静かに動く。
「水守」
名乗ったというより、それしか言葉を持たないような声だった。
「みず、もり……」
祖母の童歌が、頭の奥でかすかに蘇った。
水守、水守、どこへ行く。
山の雫を、海へ引く。
「井戸を、元に戻せるの?」
縋るように尋ねた紬へ、少女は首を振った。
「私は水を生みません」
「じゃあ、何ができるの」
「覚えているだけ」
水面に、小さな輪が広がった。
「水が通った道を。人が、閉ざした道を」
少女は井戸の奥から、山の方を見た。
「山の水は、まだ生きています」
その姿が、水紋に崩れていく。
「待って!」
「見つけて」
声だけが残った。
「水の帰る道を」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
井戸の水面に現れた、青い衣の少女。
彼女は奇跡で水を生み出すのではなく、ただ「水が通った道を覚えている」と告げました。
では、島から忘れ去られた水の道とは――。
次回、第二話「水は道を忘れない」。
祖母が残した童歌が、紬を失われた水路へ導きます。
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