↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水守異聞 潮の井戸が眠る島  作者: 天手古まい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/5

第一話 潮の味がする井戸

 本日より、全五話の短編、


『水守異聞 潮の井戸が眠る島』


をお届けします。


『佐和山若旦那録』から続く「水守」の物語ですが、前作を読んでいない方にも、この作品だけで楽しんでいただけます。


 舞台は現代の離島。


 潮の味がする古井戸から、新たな物語が始まります。

第一話 潮の味がする井戸


 古より、この国には水守の話が伝わっている。


 雨を降らせる神ではない。


 洪水を消し去る仙人でもない。


 水がかつて通った道と、人が水に交わした約束を、決して忘れぬ者だという。


 けれど、水守を見たという者は少ない。


 水は、道を忘れない。


 忘れるのは、いつも人の方だからだ。


     ◇


「これ、捨てていい?」


 平山紬は、埃をかぶった木箱を持ち上げた。


 返事はなかった。


 開け放した障子の向こうで、母の理恵は古い食器を新聞紙に包んでいる。


 波の音と、紙の擦れる音だけが、祖母の家に残っていた。


「お母さん」


「聞こえてる。中を見てからにして」


「また手紙だったら、読まないよ」


「ハルばあちゃんのものなんだから、勝手に決めない」


 母の声は、いつもより少しだけ硬かった。


 祖母の四十九日は、昨日終わった。


 島の者はほとんど全員、葬式にも法要にも顔を出した。


 井戸を守ってくれた人。


 島の昔話を知っていた人。


 困ったとき、最後に頼れる人。


 皆が、祖母をそう呼んだ。


 けれど紬にとっては、祖母は祖母だった。


 幼い紬を膝に乗せ、同じ童歌を何度も聞かせた。


 島を出たいと言えば、寂しそうに笑った。それでも一度として、残れとは言わなかった。


 箱の蓋を開ける。


 中に入っていたのは、色褪せた手拭いと、錆びた鍵の束。


 それから、貝殻で作られた小さな風鈴だった。


 軒先に吊るしてあったものだ。


「……これは取っとく」


 紬は誰にともなく言って、風鈴だけを自分の鞄へ入れた。


     ◇


 九州の西に浮かぶ汐路島は、歩いて一周できるほどではないが、車なら一時間もかからない。


 高校は分校。


 コンビニは一軒。


 信号機は二つ。


 海はきれいだった。


 夕日も、観光客が来れば歓声を上げるほど美しい。


 だからといって、一生ここで暮らしたいとは思わなかった。


 島では、誰もが紬のことを知っている。


 祖母の孫。


 理恵の娘。


 来年には島を出る子。


 自分の名前より先に、誰かとのつながりで呼ばれる。


 紬は、それが少し息苦しかった。


 昼を過ぎたころ、空が急に暗くなった。


 台風は昨夜、島の南を通り過ぎたはずだった。


 しかし吹き返しの風は強く、庭の夏蜜柑が大きく揺れている。


 不意に、防災無線が鳴った。


『役場からお知らせします。昨夜の台風により、海底送水管に破損が確認されました』


 母の手が止まった。


『復旧まで、島内全域で断水となります。各地区の給水所については――』


「また?」


 紬が言うと、母は首を振った。


「前は停電でポンプが止まっただけ。管が切れたなら、すぐには直らない」


 汐路島の水道水は、海の下を通る一本の管で、隣の大きな島から送られてくる。


 島内にも貯水槽はあるが、観光客の多い夏場だ。


 節水しても二日は持たないらしい。


 しかも、海はまだ荒れている。


 給水船が接岸できる見込みも立っていなかった。


「昔は、井戸の水を使ってたんでしょ」


「昔はね」


 母は庭の隅へ目を向けた。


 石垣のそばに、丸い石蓋がある。


 ――潮の井戸。


 祖母の家の前庭にある古井戸は、かつて集落の共同井戸だった。


 海から百歩も離れていないのに、真水が湧く。


 不思議な井戸として、島外から見物に来る者もいたという。


 だが、水道が通ってから使われなくなった。


 紬が物心ついたころには、危険だからと石蓋を載せられ、祖母がときどき掃除をするだけになっていた。


     ◇


 夕方には、役場の職員と消防団がやってきた。


 石蓋が、何十年ぶりかに動かされた。


 井戸の中は暗かった。


 懐中電灯の光を落とすと、ずっと下で黒い水面が揺れた。


「水はあるな」


「ポンプ、持ってきます」


 集まった島民から、安堵の声が漏れた。


 だが、汲み上げた水を簡易検査した役場職員は、すぐに顔を曇らせた。


 年配の消防団員が、指先についた水を舐める。


「しょっぱい」


 その一言で、皆が黙った。


 紬も紙コップの水に指を浸し、ほんの少しだけ口へ運んだ。


 舌に残ったのは、間違いなく潮の味だった。


「海水が入っとる」


「もう使えんとや?」


「飲み水には無理です。生活用水に使えるかも、詳しく調べないと」


 期待していた分だけ、落胆は大きかった。


 誰かが祖母の名前を口にした。


「ハルさんがおれば、何か知っとったかもしれんな」


 その言葉が、紬の胸に引っかかった。


 生きている間に聞けばよかったではないか。


 祖母が何度も井戸の話をしたとき、笑って聞き流したのは、自分も同じだったけれど。


     ◇


 その夜、紬は喉の渇きで目を覚ました。


 冷蔵庫には、配給されたペットボトルの水がある。


 台所へ向かおうとして、風鈴の音を聞いた。


 ちりん。


 鞄の中へ入れたはずの風鈴が、縁側に吊るされていた。


 戸は閉まっている。


 風もない。


 それでも風鈴は、もう一度鳴った。


 ちりん。


 庭の方から、水の匂いがした。


 紬はスマートフォンの明かりを手に、外へ出た。


 井戸には、昼間とは違う仮の蓋が置かれている。


 その隙間から、月の光が細く差し込んでいた。


 近づいて、のぞく。


 水面に、少女が立っていた。


 青い衣をまとい、長い髪を背へ流している。


 井戸の底に立てるはずがない。


 映っているだけなのかと思い、紬は振り返った。


 誰もいない。


 もう一度、井戸を見る。


 少女は水面から、まっすぐ紬を見上げていた。


「誰……?」


 逃げるより先に、声が出た。


 少女の唇が、静かに動く。


「水守」


 名乗ったというより、それしか言葉を持たないような声だった。


「みず、もり……」


 祖母の童歌が、頭の奥でかすかに蘇った。


 水守、水守、どこへ行く。


 山の雫を、海へ引く。


「井戸を、元に戻せるの?」


 縋るように尋ねた紬へ、少女は首を振った。


「私は水を生みません」


「じゃあ、何ができるの」


「覚えているだけ」


 水面に、小さな輪が広がった。


「水が通った道を。人が、閉ざした道を」


 少女は井戸の奥から、山の方を見た。


「山の水は、まだ生きています」


 その姿が、水紋に崩れていく。


「待って!」


「見つけて」


 声だけが残った。


「水の帰る道を」


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。


 井戸の水面に現れた、青い衣の少女。


 彼女は奇跡で水を生み出すのではなく、ただ「水が通った道を覚えている」と告げました。


 では、島から忘れ去られた水の道とは――。


 次回、第二話「水は道を忘れない」。


 祖母が残した童歌が、紬を失われた水路へ導きます。


 続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援していただけるとうれしいです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。