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第9話 手当ての痕と遠い過去

 薬草園に戻るなり、二人を出迎えたのはベルタの盛大な溜息だった。


「で、その足はなんだい」


「小動物の巣穴に落ちてしまいました」


 ミリィアが悪びれもせず答えると、ベルタはこめかみを押さえた。


「一人で行かせるのは危ないから付いてけって言ったのは、まさにこういう事態を避けるためだったんだけどねえ」


「俺も一応、注意はしたんだよ?」


 アッシュは殊勝な顔で、軽く肩を竦めるだけだ。

 ベルタは呆れ果てた様子で、片眉を上げる。


「……まあ、いいさ。とにかく、ミリィアはしばらく安静。森はしばらく禁止だ」


「でも、植生調査が――」


「禁止だ」


「せめて、記録室での古い文献の整理だけでもさせてください」


「それなら構わないよ」


 ミリィアはあっさりと妥協案を受け入れ、早くも室内での作業に頭を切り替えている様子だった。

 切り替えの早さに、ベルタはもう突っ込む気力もないようだった。

 部屋を出ていくミリィアの背中を見送ってから、ベルタはアッシュに向き直った。


()()()()()()?」


「いや……でもまあ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()よ。ベルタ」


 ベルタはしばらくアッシュの顔を眺めていたが、結局そこから先は何も言わなかった。

 アッシュよりも長く生きてきた勘が、これ以上踏み込むと厄介なことになると告げていたのかもしれない。



 ★


 その夜、自室に戻ったアッシュは、寝台に腰掛けたまま、しばらく魔灯の炎を見つめていた。

 ミリィアの足首の手当てをした時、思い出したのは、古い記憶だった。


 ――母の手だ。


 幼い頃、転んで膝を擦りむいた自分を、母はいつも同じ手つきで手当てしてくれた。

 薬草を丁寧に刻み、水で溶いた膏薬を、慣れた指先でそっと塗る。

 痛みに顔をしかめる息子に、母はいつも静かに笑いかけていた。


「痛いのは、治っている証拠ですよ」


 そう言って、彼女は決まって庭の隅に咲く名も知らぬ花を一輪、手折って渡してくれた。

 痛みの気を紛らわすためだったのだろう。幼いアッシュは、その花の名前を聞くたび、母がすらすらと名を挙げるのを、ただ感心して聞いていた。


 母は宮廷の片隅で暮らす身でありながら、庭仕事と薬草の知識にだけは、妙に詳しい人だった。


「母上は、物知りですね」


「そうでもありませんよ。ただ、好きなだけです」


 好きなものについて語る時の母の声は、いつもより少しだけ高く、弾んでいた。

 アッシュはその声を聞くのが、好きだった。


 庭の小さな東屋で、二人きりで過ごす午後。

 読み書きを教わりながら、時折、母がふと窓の外を眺めて黙り込むことがあった。


 何を見ているのか、幼いアッシュには分からなかった。

 ただ、そういう時の母の横顔には、庭の花を語る時とは違う、どこか遠い色があった。


「母上?」


「……ああ、ごめんなさい。何でもありませんよ」


 そう言って母はまた笑うのだが、その笑い方は先ほどまでのものと、微妙に違っていた気がする。

 今になって思えば、あれは何かを堪えている顔だったのかもしれない。


 だが当時のアッシュには、母がいつも笑っている、それだけで十分だった。


 その日常が終わったのは、あまりに唐突だった。

 いつものように東屋に向かうと、母はいなかった。

 代わりにいたのは、見たこともない硬い顔をした侍女たちと、普段は寄りつきもしない医師団だった。


「――お加減を崩されまして」


 そう聞かされた時、アッシュはまだ、それがどれほど深刻な事態か理解していなかった。

 母はこれまでも時折、体調を崩すことがあった。


 だから今回も、少し休めばまた笑って出てくるものだと、幼心にそう信じていた。


 だが、日を追うごとに、周囲の空気は張り詰めていった。

 誰も彼もが、アッシュの前ではやけに優しく、そのくせ目を合わせようとしなかった。


 最後に母と会った日のことを、アッシュはよく覚えていない。

 ただ、母の手が、いつもよりずっと冷たかったことだけは覚えている。


「ア……シュレ……イ」


 かすれた声で、母は名前を呼んだ。

 それから、何かを言いかけて、結局、言葉に音を載せることは叶わなかったのだ。


 その代わりに、母はただ、微かに笑った。

 庭の花を語る時の笑い方でも、何かを堪える時の笑い方でもない、もっと静かな――アッシュが、後にも先にも二度と見ることのなかった種類の笑み。


 それが、最後だ。


 魔灯の明かりが、アッシュが無意識に放った魔力を感知し、風もないのに小さく揺れる。

 アッシュは目を伏せ、乾いた笑いを一つこぼした。


 母が遺したものは、多くはなかった。

 名前も、身分も、生きた証のほとんどは、あの一件の中で塗り潰されてしまった。

 ただ、指先が覚えている手当ての仕方と、庭の花の名前だけは、今も色褪せずに残っている。


 今日、あの無防備な令嬢の足首に触れた時、その記憶がふと蘇ったのは、単なる偶然だったのだろうか。


 アッシュは片手をさっと振り、明りを消すと、暗闇の中で静かに目を閉じた。


 答えの出ない問いを、今夜もまた、胸の奥にしまい込んだまま。

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